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〈兄弟対談〉『日本橋バビロン』をめぐって。小林信彦 vs. 小林泰彦

〈兄弟対談〉『日本橋バビロン』をめぐって。小林信彦 vs. 小林泰彦

構成:「本の話」編集部

『日本橋バビロン』 (小林信彦 著)

出典 : #本の話
ジャンル : #小説

初空襲の日

信彦 昭和十五年の東宝映画「孫悟空」で、中村メイコさん、ぼくより二つ下なのに、出てくるんだ。登場人物三人がへとへとになる場面で突然、角帽をかぶったメイコさんが登場して、皆になにか手渡すんですが、これがホウレン草の缶詰で、ポパイのテーマソングが流れて元気になる。別の場面ではディズニーの「星に願いを」も歌ってる。日米開戦直前ですよ。

泰彦 開戦のぎりぎりまで、銀座の金春館でポパイの映画を見た記憶がある。

信彦 真珠湾攻撃の前日までアメリカ映画をやってたな。「スミス都へ行く」を〈民主主義の勝利!〉とかいう惹句でね(笑)。翌日(十二月八日)にはドイツの潜水艦の映画なんかに変わってた。

泰彦 十九年には一緒に歌舞伎座に六代目尾上菊五郎の「藤娘」を見に行ったよね。

信彦 「高級享楽の停止」とかで歌舞伎座、東京劇場、新橋演舞場が三月から閉鎖。歌舞伎座がダメで、なんで明治座はいいのかわからないけど。その休場の寸前に行ったんだ。弟の年齢で大空襲前に六代目の「藤娘」を見ている人は多くないと思うよ。

泰彦 菊五郎はフレッド・アステアに憧れてて、高下駄でタップを踏む「高坏(たかつき)」っていう演目を作っちゃって、それも明治座で観ている。それで子供のくせに妙に感心しているんだね。ともかくすごい役者だった。

信彦 歌舞伎座閉鎖から一年後に東京大空襲だけど、初空襲は昭和十七年の四月なんだよ。校庭にいたら大川の向こうからサイレンが聞こえてきて、工場で午後の始業の合図か何かだろうと思ってのんびりしてた。そのうち高射砲の音が聞こえてきて、慌ててランドセルを持って家に帰った記憶がある。

泰彦 ぼくはサイレンを聞いた記憶がないんだよね。教室にいたらヒコーキの音がして、窓まで行ったら、飛んでるのが見えて、皆で万歳って手を振った。日本軍だと思ったから。米軍機ってわかったのはだいぶあとだった。

信彦 みんな何だかわからなかったんだ。あとで、パールハーバーの報復とわかった。でも大した事ないんじゃないかと思ってた。後で矢来町のほうで子供が殺されたって聞いたけど、新聞には何も出なかった。十九年の八月にはぼくもこの人も集団疎開して、翌年三月が大空襲。三月十日は陸軍記念日で、ぼくらはこの日に合わせて帰京する予定だったんだけど取りやめになった。米軍は陸軍記念日なんて知らなかったと思うけどね。三月って風が強いでしょ、隅田川の両岸は瞬(またた)く間に火の海になった。B29の無差別爆撃だったわけだけど。

――お二人とも、そのまま終戦まで両国には戻られなかったんですね。

信彦 二十一年の暮れに母の実家の南青山の高宮家に住むことになるんだけど、その前、四月にぼくは父と一緒に両国の焼け跡を見に戻っています。親父は両国の惨状を見せて、東京に戻るのをあきらめさせようとしたんだと思う。下越に家を移したいって言ってたから。新潟高校に入れようとしていたんだ。だけどぼくはしつこく東京に帰りたいって伝えてた。

泰彦 あの時はおふくろさんも帰りたがってたね。両国は焼けたけど、青山の家が奇跡的に残ってたから。

信彦 それで、二十一年の暮れから一年半くらい青山の家に厄介になって、両国に戻ったのは結局二十三年の五月だった。焼け跡に小さい店舗付の仮建築程度の家が建った。

泰彦 それで、和菓子屋は細々と再開したけど、親父が病気になって二十七年に亡くなって、暖簾を売ってしまった……。

信彦 一年後、四谷左門町に母、泰彦、ぼくと三人で引っ越して、もう両国に戻ることはなかったわけです。ぼくが二十歳のときだった。

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日本橋バビロン
小林信彦・著

定価:本体571円+税 発売日:2011年09月02日

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