――新刊『空ばかり見ていた』の主人公であるホクトさんは、旅する床屋ですが、珍しい商売ですよね。この奇抜な着想はどこから生じたのでしょうか?
吉田 そもそも書きたかったのは、床屋さんの話なんです。店の話というよりは、理髪師。床屋さんという存在がおもしろいなあと以前から思っていたんです。存在自体が演劇的といったら大げさかもしれないんですけど、不思議な存在ではないかという気がして。最近はわかりませんけど、昔の床屋の風景といったら、床屋も客もあまりしゃべらないものですよね。
――確かに美容師と違い、床屋は寡黙なイメージです。
吉田 そう。だから、床屋というのは静かな場所だと思うんです。そこで客は、かなり無防備な状態になりますよね。僕はそれを「つむじをさらす」と言いたいんですけど(笑)、そんなちょっとほかでは見られないような親密な関係を結んでいるのに、その床屋さんとお客さんとの関係は、ほんの数十分のあいだ、長くても一時間ぐらいの出来事で、交わす言葉数もごく少ない。しかも、男の子の場合、小さいころから通っている床屋にかなり長いこと通い続けたりするから、つき合いとしてはけっこう長くなる。いや、不思議な場所ですよ、思えば。
そして床屋も客も、多くを語らずお互いに考えてることがある。その、「考えていること」が出会うというか、すれ違うというか……。その二人が接近しながらもお互いをさらけだすことなく、それぞれが思っていることを読者だけが知っている、そういう風に書きたかったんです。大仰に言うと、登場人物と読者が秘密を共有してる、そういう形が好ましい状態というか。
――なるほど。ところでそんな床屋がなぜ旅することになったのでしょうか?
吉田 これは、あるとき「エバースマイル、ニュージャージー」という映画のレーザーディスクの帯だったかジャケットに――これはあやふやなんではっきり覚えてないんですけど――僕は世界中の虫歯を治して回りたい、みたいなコピーがあったんですよ。僕はその映画をまだ観てないんですが、どうもパタゴニアを旅して、いろんな人の虫歯を治していくロードムービーみたいなんですね。そこでふいに結びついてしまった。これを歯医者じゃなくて、旅する床屋――床屋さんがいろんな人の髪を切る物語にしたらどうだろう、と。ただ、いざ書くときに、まずこの人はなぜ旅に出たのか、というエピソードから始めたくなって、とりあえず最初の短編を書いてみたんです。
とはいえ、第一話で「よし、じゃあ、俺は旅に出るんだ」と主人公につぶやかせるのは何となく恥ずかしかったんで、第三者が彼を見ていて、そして彼がいなくなってしまう、という書き方をしたんですね。それがきっかけで、主人公の内面をロードムービー的に書くのではなくて、主人公が訪れるいろんな場所、いろんな土地、いろんな国、いろんなところにいる人たちの目で見た「彼=床屋」というお話になっていったんです。それがしだいに空間だけじゃなくて、時間も少し妙なことになって(笑)、あげくメタ的な存在になってしまったり――たとえば本のなかに出てきたりとか。
――ネコになったり(笑)。
吉田 そんなふうに時間も空間もけっこうすっ飛ばしちゃったら、なんだか『火の鳥』みたいになってきた(笑)。いわば、火の鳥がホクトさんで、いろんな時代のいろんな人たちがそれを見て、その見聞を集めたのがこの連作です、みたいな。でもそこで、あ、そうか、『火の鳥』だと思ったら、急にそれで終始するのもつまらなくなって、火の鳥の内面は、さすがに手塚治虫も書かなかったなと思いついて、途中でホクトさんの視点に移したりしてみました。第六話の「アルフレッド」だったかな。
――そうですね。
吉田 ですね。ですから結局は、一つも志を通してないということです(笑)。思いついたとおりに変わっていったということですかね。