「不思議」だった30年間
まずは、お礼を申し上げてから、この30年の思いを、私なりの言葉でお伝えしようと思います。
没後30年にもわたりまして、いろいろな方々のお力を頂戴して、向田邦子の本やテレビ番組をこの世に出しつづけていただきました。姉邦子はもうおりませんが、作家向田邦子は書店でもテレビでもまだ生き続けております。
ありがとうございました。
向田邦子が51歳で事故死したのは、昭和56年8月22日のことでした。
身内にとって邦子の没後は、折々に起こる思いがけない出来事と向き合って、1つ1つの答えを探しながら過ごす月日でした。30年の間にいろいろなことをしていただけて、ありがたい、という思いがたくさん残っています。
毎年、夏が近づくと、取材があったり、雑誌の特集のお話がきたりと、騒がしくなってきます。10年たったとき、「いつまで続くかしら?」とテレビ局の方に聞くと、「邦子さんみたいに冠番組がつづく人はあんまりいないよなあ」と返事が返ってきました。30年すぎて編集の仕事に詳しい人から、「お姉さんの本はよくぞ絶版にならないで、今も本が書店に並んでいるわね」と言われました。向田家は邦子を除いて活字の世界はみんな素人ですから、私はこの言葉を聞いて、(ああ、30年って、そういう長さなのか)としみじみ感じました。
この年月の感想を言葉にするならば、「不思議」の一言です。
というのは、3年、5年、10年、15年、20年、25年、30年という没後の節目で、邦子は何事かを引き起こしてくれたのです。本人が空の上から差配しているといったら言い過ぎかもしれませんが、何かそういう不思議な力を感じながら、ずっと邦子の仕事を守りつづけています。
身内のことながら、「どうしてこんなに続くのかしら?」と考え始めたのは、10年経ったころからでした。
生前の姉は、脚本家としては23年間、活字の世界では直木賞をいただいてのちにはわずか1年あまりしか仕事をしておりません。それがいまもってみなさんに愛されつづけている仕事を残すことができたのです。
姉にとっての幸運はまず、時代に恵まれたことでしょう。テレビドラマ創りの大変面白い時期にシナリオを書かせてもらえました。
デビューした昭和33年は東京タワーが出来た年。日本で初めての刑事ドラマといわれる『ダイヤル110番』(昭和32年~39年、日本テレビ、全365話)で、シナリオ作家デビューをしています。何もかもが試行錯誤で番組はすべて生放送だったテレビ創成期から、自由にシナリオを書かせてもらえました。なにしろ邦子は押しつけられることが嫌いなので、「好きにやっていい」と言われると、ますます頑張るタチなのです。
幸運の2つ目は、人に恵まれました。とくに森繁久彌さん、久世光彦さんには大きなチャンスを与えていただきました。
久世さんから、こんな思い出話をよく聞いたものです。 「お姉ちゃんは、大してうまくなかったね。モノ食ってる場面ばっかり書いて、全然場面転換がない。茶の間のシーンの次がまた茶の間のシーンだものな。でも、何か1、2箇所は今まで書いてきた人とは違って面白いところがあったんだ」
こんなふうに思っていただける演出家に出会えた。これは運のよさがあってこそです。
森繁久彌さんは、邦子の運命を変えた方。師匠であり恩人で、絶対的な存在でした。ラジオドラマ『森繁の重役読本』(昭和37年~44年、TBSほか)をはじめ、『だいこんの花』(昭和45年~52年、NET)など多くの作品を書かせていただいています。『だいこんの花』は最初は何人かの書き手がいたのに、
「自分の代表作にしたいから、私1人に書かせてください」
とプロデューサーに直訴して、邦子が単独で書くようになったのです。森繁さん演じる元海軍大佐の口煩(くちうるさ)いじいさんを主人公にしたこのホームドラマは、第5シリーズまで7年間にわたって続いた、邦子がお気に入りのドラマとなりました。
「ままや」の思い出
『だいこんの花』といえば、森繁さんと先日お亡くなりになった竹脇無我さんの顔が思い浮かびます。当時はドラマを観ても脚本を誰が書いたというより、演じている役者さんの印象が大変強くなってしまう。後になって、「ああ、あれを書いてたのは向田さんだったの?」という程度で、書いている人の名前よりもドラマのタイトルが独り立ちしてしまうのです。
「それでテレビドラマはいいのよ」
と邦子は言っておりました。
そうかなあ? とそのときは思ったのですが、後々になって、ドラマのタイトルと俳優さんの名前がまず思い浮かぶような代表作をもっていることが、脚本家にとって、とてもありがたいことなんだと思えるようになりました。
姉が書いたテレビドラマは、70作ほどあります。
その中で私が1番の代表作だと感じているのは、『寺内貫太郎一家』(昭和49年、2は50年、TBS)。作曲家の小林亜星さんを主役に抜擢したことや、卓袱台のある茶の間の乱闘シーンが評判になって高視聴率をとった番組です。
なぜ私がこれを代表作と思ったかというと、私が「ままや」という店をやっていたときに、お運びで男子学生のアルバイトを雇っていたのです。店で、私は一言も姉のこと言っていないのに、アルバイト同士で何となく、
「この店は『寺内貫太郎一家』を書いていた脚本家の妹がやっているんだってさ」
という話になる。
「エエッ? 『テラカン』! 僕、観たよ」
脚本家の名前が向田邦子とは知らなくとも、小林亜星さん、加藤治子さん、樹木希林(当時は悠木千帆)さん、西城秀樹さん、梶芽衣子さん、浅田美代子さんが1つの卓袱台を囲んでいるあの茶の間の風景を思い出す。そして、ササーっと居住いを正して、私の顔をまじまじと見直して、
「僕の中学校のときの試験問題に出ましたよ、『字のない葉書』ってエッセイ。字が書けない女の子って、ママさん?」
とかなんとか言われて、私はたちまち“字が書けないおばちゃん”になったりしたものです。『寺内貫太郎一家』がきっかけで向田を身近に思っていただいて、一所懸命働いていただいた学生さんが何人もいらっしゃいました。
「ままや」は、昭和53年から平成10年まで20年間つづけました。やめて13年になりますから、中学・高校の時に「寺貫」を観てくれていた当時の学生さんたちも、もう50歳近くになっているでしょうね。
『寺内貫太郎一家』以降の、『あ・うん』、『阿修羅のごとく』、『冬の運動会』などをとてもいい作品と言ってくださる方も多くいて、ありがたいことです。でも、皆さんの中に脚本家・向田邦子の存在を記憶させた1番大きなきっかけは、やはり『寺内貫太郎一家』。私はそう思っているのです。
この30年、「向田邦子さんって、どういう人でしたか?」とたくさんの方に聞かれました。姉本人は、自分という人間について質問されることがあまり好きではありませんでした。むしろ自分のことを語りたがらない人。何か聞いても不機嫌になることはないけれど、ちょっと寄せつけない感じがしたものです。姉とは9つ違いですから、私が物心ついたときはもう大人びて見えたこともあって、ほんとに小さいときから、そう感じていました。
親にも聞いてはいけないことや、言ってはいけないことがある、と私は小さいときから思ってきました。どうしてかは分かりませんがきっと、家の中にそういう空気があったのかもしれません。
いまになってその理由を考えると、父が私生児だったことと関係しているように思います。シングルマザーという言葉が日本で使われるようになるずっと以前のことですから、私生児という言葉そのものに今とは違う時代の感覚がついてまわったと思うのです。
母は、「私は馬鹿やったなあ」などと、死ぬ間際に冗談交じりに言っていたのですけど、父の出生の事情など全く気にしないでお見合いで結婚を決めました。
母が父との結婚を決意したのは、「向田敏雄という1人の男がいて、親1人子1人で、とても自立した、しっかりした人だ」という紹介者の一言。子供の頃に裕福だった自分の実家が、父親の優しさが災いして保証人の判子を押したばかりに破滅して苦い思いをしたので、男の人ははっきり「イヤだ!」と言える強い人がいいと思っていたこと。それと、会社勤めの月給取りがいいんじゃないかと思った。そんな理由で一生の伴侶を決めました。
結婚して相手の人生の蓋を開けてみたら、いろんなことが分かって、こんな人生ってあるんだ、こんな人っているんだ、と驚いた。驚いた次に、母は何を思ったか。「こんなに親の愛情を知らない人がいるのだから、その愛情を私たち家族がきちんと補ってあげたい」と思った。それが母向田せいでした。
「敏雄さんがイヤがるようなことは、あなた方が言うべきではないよ」
という無言の戒めが家の中に充満していたのでしょう。「お父さんって、人間としていろいろ欠点もあって、家の事情で苦労もしたけど立派な人だよ。人間にとって、生い立ちは関係ないことだ」というルールを母が決め、何事も父を優先するという空気感が私が生まれたときにはもうあったような気がします。