インタビューほか

向田和子インタビュー 向田邦子の言葉に支えられて

烏兎沼 佳代 (構成)

姉と妹の「没後三十年」

 

「ままや」の思い出

『だいこんの花』といえば、森繁さんと先日お亡くなりになった竹脇無我さんの顔が思い浮かびます。当時はドラマを観ても脚本を誰が書いたというより、演じている役者さんの印象が大変強くなってしまう。後になって、「ああ、あれを書いてたのは向田さんだったの?」という程度で、書いている人の名前よりもドラマのタイトルが独り立ちしてしまうのです。

「それでテレビドラマはいいのよ」

 と邦子は言っておりました。

 そうかなあ? とそのときは思ったのですが、後々になって、ドラマのタイトルと俳優さんの名前がまず思い浮かぶような代表作をもっていることが、脚本家にとって、とてもありがたいことなんだと思えるようになりました。

 姉が書いたテレビドラマは、70作ほどあります。

 その中で私が1番の代表作だと感じているのは、『寺内貫太郎一家』(昭和49年、2は50年、TBS)。作曲家の小林亜星さんを主役に抜擢したことや、卓袱台のある茶の間の乱闘シーンが評判になって高視聴率をとった番組です。

 なぜ私がこれを代表作と思ったかというと、私が「ままや」という店をやっていたときに、お運びで男子学生のアルバイトを雇っていたのです。店で、私は一言も姉のこと言っていないのに、アルバイト同士で何となく、

「この店は『寺内貫太郎一家』を書いていた脚本家の妹がやっているんだってさ」

 という話になる。

「エエッ? 『テラカン』! 僕、観たよ」

 脚本家の名前が向田邦子とは知らなくとも、小林亜星さん、加藤治子さん、樹木希林(当時は悠木千帆)さん、西城秀樹さん、梶芽衣子さん、浅田美代子さんが1つの卓袱台を囲んでいるあの茶の間の風景を思い出す。そして、ササーっと居住いを正して、私の顔をまじまじと見直して、

「僕の中学校のときの試験問題に出ましたよ、『字のない葉書』ってエッセイ。字が書けない女の子って、ママさん?」

 とかなんとか言われて、私はたちまち“字が書けないおばちゃん”になったりしたものです。『寺内貫太郎一家』がきっかけで向田を身近に思っていただいて、一所懸命働いていただいた学生さんが何人もいらっしゃいました。

赤坂「ままや」にて。カウンターの中には和子さん

「ままや」は、昭和53年から平成10年まで20年間つづけました。やめて13年になりますから、中学・高校の時に「寺貫」を観てくれていた当時の学生さんたちも、もう50歳近くになっているでしょうね。

『寺内貫太郎一家』以降の、『あ・うん』、『阿修羅のごとく』、『冬の運動会』などをとてもいい作品と言ってくださる方も多くいて、ありがたいことです。でも、皆さんの中に脚本家・向田邦子の存在を記憶させた1番大きなきっかけは、やはり『寺内貫太郎一家』。私はそう思っているのです。

 この30年、「向田邦子さんって、どういう人でしたか?」とたくさんの方に聞かれました。姉本人は、自分という人間について質問されることがあまり好きではありませんでした。むしろ自分のことを語りたがらない人。何か聞いても不機嫌になることはないけれど、ちょっと寄せつけない感じがしたものです。姉とは9つ違いですから、私が物心ついたときはもう大人びて見えたこともあって、ほんとに小さいときから、そう感じていました。

【次ページ】親にも聞いてはいけないことや、言ってはいけないことが…


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