私は小さい頃は、怖くて五月蠅(うるさ)い父だな、と思っていましたから、小学校の頃からわからないことは全部、親より邦子に聞いていました。
洋服の採寸でくすぐったがって笑う私に「笑ってちゃ、できません」とぴしっとけじめを教えてくれたのも邦子でした。
ある時は父親がわりにもなってくれました。
小学校のとき、先生にどうしても腑に落ちないことをされたことがあるのです。小学校6年の1学期、5月に仙台から東京に来たばかりのとき、授業が終わって家に帰ろうとしたら、雨がジャージャー降りになった。私の家は学校の近くだったので蛇の目傘を5、6本あるだけ小脇に抱えて家から持ってきて先生に渡すと、「こんな蛇の目なんてさせないよ」とちょっと気色ばんで言われた。自分ではいいことしたと思っているのに、まったく受け入れられないことがショックで、家で黙っていると、姉が飼い猫の背中をゆっくりなでながら、「今日、和子ちゃん、どうだった? 何かあった?」とのんびりした口調で聞く。私が理由を話すと、姉は、
「大人でも、子供でも、人間としての好き嫌いもあるし、感情の起伏もあるし、価値観もあるから、それは先生にとって、あんまりご機嫌がよくなくて受け入れられなかったことなんだけど、あなたのやったことは大変いいことよ」
と言ってくれたのです。「子供も、先生も、同じ人間」ということを私は小学校の6年の夏に20歳だった姉に教わりました。これは、私にとってとても大きな出来事でした。
人間は、「あなたのことをきちんと見ているよ」という誰かがいると、人生をとてものびのびと歩んでいける。私にとってはその人が向田邦子だったということです。
こんなこともありました。6年生のときに、学期末に頂戴して帰る通信簿の一筆欄に、「積極性に欠ける。云々カンヌン」と書いてあった。それに親が返事を書いて戻すのですが、母が父親の出張があったりで忙しかったので、邦子に代筆を頼んだのです。書いてくれた一文が、
「やや積極性は欠けますが、やらせれば、最後まで責任を持ってやり遂げる子です。」
私はめちゃくちゃ嬉しくて、この時、(いつか邦子のために何かをやれる私でいたい)と心に決めました。この思いは今でも同じ。一生涯変わらないと思います。
何も言わない人だからこそ
この30年間、向田邦子関連のお仕事でたくさんの方々からお声をかけていただきました。「お引き受けする・お断りする」を決める基準は、姉の好き嫌いを考えた上で姉が喜ぶこと、それに母が喜ぶことをやること。私はそれだけを考えて、仕事を決めたい、と思いました。
邦子から仕事についてあれこれ指示するメモ書きや手紙をもらったことは1度もありません。もしもメモ書きをもらったりなんかしたら、思いは薄れてしまったと思う。文字に書き残されているということに頼ってしまう。何も言わない人だからこそ、私はほんとに何か1つをもらったり、何気なく街を歩いたときに言う言葉をわりときちんと聞いていたと思います。本当に大切なことは、さりげない言葉で、ぽろり、ぽろりと言う人だと、子供のときから分かっていましたから。
私から姉に手紙を書いたこともありません。書いても、「読みたくない」と言って、ひっちゃぶる人だと思います。
父は反対に筆まめな人でした。筆まめな人というのは何かそれに頼って、あんまりインパクトがなくて何も残っていない、ということもあります。実際、取材などで「字のない葉書」に出てくる、私がマルやバツを書いて返信した葉書と、「父の詫び状」に出てくる朱筆で傍線のついた詫び状は残ってないか、と何度も聞かれましたが、1枚も残っておりませんしね。
書いて伝えることより察することが優先だったはずが、唯一「書いてある」と姉が私に言ったものがあります。それが遺言状でした。
「もしものことがあるから、遺言状は書きました。テレビの上に置いてあります」と。
でも、実際に事故死した直後には、遺言状のことはまったく思い出しませんでした。遺言状は、ちゃんと姉が言い残した位置に置いてありましたけど、気づいたのは迪子(次姉)でした。
姉の訃報が届いた直後から、私は文字ではなくて、姉が何を言いたかったか、というメッセージを探していたと思います。姉が死んだ直後のことは話したくありませんが、1つだけ言えることがあるとすれば、「命を大切にしなさい」という姉の遺志を強く感じたこと。家族、猫たち、残された命をどうやって守っていくか。生きているために、食べる、寝る。それだけに集中することで、私は精一杯でした。食べることがあんなに苦しかったことはありません。
3カ月ほどすぎてから、今度は、姉の仕事をどうするかという現実問題をつきつけられてきました。
各方面の方々に半年間待ってもらい、半年後から一斉に邦子の仕事をスタートすることになりました。私が窓口をする、と公に決まったときから、私は、「向田邦子という人は、どういう仕事をすることを考えていたか?」という地点に立って、「向田邦子だったら、どういうことを考えて仕事を進めていったか」、「イエス、ノーをはっきりしなきゃいけない」と考えながら、邦子の没後の仕事をするスタートラインに立ちました。
大変ありがたいことに私は姉の生前に3年間、「ままや」で姉の後ろ姿を見たような気がしますし、仕事関係の人たちも何となく見ていました。それで誰にも相談せずにイエス・ノーを決めてきました。
向田邦子と東日本大震災
今年は、30年の年月を感じる不思議なご縁がたくさんありました。
NHKでは松下奈緒さんの主演で『胡桃(くるみ)の部屋』をドラマ化してくださいました。『寺内貫太郎一家』を子どもの時に観ていてくれた爆笑問題の太田光さんが全集の月報に書いてくださった原稿が『向田邦子の陽射し』という1冊の本になりました。朝日新聞をはじめ多くの紙誌でも邦子は取り上げられて、作家の角田光代さん、有川浩さん、歌手の桑田佳祐さんまでが向田邦子のファンだと言ってくださって、驚いています。桑田さんはなんでも太田さんに全集を送ってもらったのが読みはじめたきっかけだったとか。文庫の新装版で、『ダイヤル110番』のプロデューサーだった北川信さんと、この何年か向田作品を舞台にしてくださっている中島淳彦さんに解説をいただけたのも嬉しいことでした。
私の「和樂」の連載もきれいなムックにしていただけましたし、『向田邦子テレビドラマ全仕事』の改訂版も発売されました。この何年かで発見されたシナリオと資料があって、向田邦子の全作品数が66作品から74作品に増えました。時代の流れにのって、シナリオ集の電子書籍も順調に巻を重ねています。『寺内貫太郎一家』の脚本がパソコンや携帯で丸ごと読めるなんて、邦子が知ったらなんて言うかしら。
そして、今年は私にとって、没後30年を迎えたこと以上に、3月11日におこった東日本の震災が向田邦子を深く考えるきっかけになりました。
泥だらけになったアルバムを綺麗に洗って生き残った家族のもとに返す……そんなテレビニュースを見るたびに、邦子を思い出したのです。
邦子が全てを失いかけたとき、それは乳がんの発病でしたが、自分の原点はなんだろうと考えて支えになったのも家族の記憶でした。余命いくばくかと宣告される恐怖と戦いながら、エッセイを書き始めたにちがいありません。
向田一家勢揃いの写真は、鹿児島で撮った1枚だけです。邦子は記憶が大変いいですから、まず、その写真を思い出したかもしれません。でもそれよりも、邦子は心のアルバムを開いたと思うのです。そうすることで実際の写真よりも色鮮やかな記憶がよみがえった。心のアルバムに浮かび上がったものが、『父の詫び状』の中の薩摩揚げであったり、鹿児島の子供のときの思い出であったり、空襲のことであったり。それから、「ああ、和子が疎開に行ったとき、お父さんが宛名を書いた葉書をたくさん持たせたなあ」、などと思い出していって、随筆を書かせていただけた。「父の詫び状」自体が仙台時代の思い出を書いたエッセイですから、ひときわそう思いました。
ガンと死が向田邦子の人生を変えた。もしかしたら、それは幸せだったのかも知れません。病名がわかったのはちょうど『寺内貫太郎一家』を書き終える頃です。この病気で作風が変わりました。
病気が幸運だとは言えないけれど、運も不運も裏返し。うちの姉が言う「縄みたいなもの」です。
作家にとっての死も、そうだと言えないでしょうか。
「直木賞をもらったから、命が終わるのが早まった」という言い方も耳にしましたけど、私はそうは思いませんでした。直木賞をもらったことと、それから旅に出て命を絶たれたことは別の運命だ、と私は感じているのです。
直木賞は、向田邦子というあまり賞をもらったことのない人間、そして、本当はとても褒められることが大好きなのにあんまり褒められることもなく生きて来た人間を、50歳になって、ぱーっと輝かせた。その後の人生がどうなろうと、一瞬最高に輝けたことは、妹であることぬきに客観的に考えて、「向田邦子」の人生にとってとてもよかった、と私は30年たった今もそう思ってます。
もしも何年か後に、私が天国へ行って邦子に会ったら、姉は何て言うでしょう。 「和子ったら、ずいぶん待たせるねえ」とでも言うんじゃないかしら。「よくやったね」なんて褒めてはくれませんよ、絶対にね。
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