「あくまで噂でございます。が、噂とはいえ、それがしが岡藩の能から取り掛かる手もあろうかと思い至った所以ではあります」
「ならば、お受けしてかまわぬのだな」
「もとより。それがしからお願いしたいくらいでございました」
安堵して息をつくと、背筋がぞくりとする。なんだ、この寒気は、と思う間もなく、そのぞくりが恐れに変わる。舞いたい気でいっぱいでいたはずなのに、いざ決まってみれば自分は舞台へ上がるのを恐がっているようだ。大広間の松の大枝を怖れなかった己れはどこへ行ったのだろう。
「曲はもうわかっておりますか」
剛の変容を知ってか知らずか又四郎は話を進める。
「ああ」
気取られぬように、剛は答えた。
「養老、と伺っておる」
「養老……ですか」
「小書、とも」
「ほお」
小書はもともとの曲に別段の演出を施したものである。もろもろ、変わる。ずいぶん変わる。
「養老の小書……」
又四郎の様子も変わった。つぶやくように言ってから、押し黙った。
「なにか考えるところでもあるのか」
一向に消えぬどころか広がろうとする恐さを、剛は問うことで紛らわそうとする。
「いえ、修理大夫殿はなにゆえに養老の小書を選ばれたのかと思いまして。知らずに思案しておりました」
「こちらの齢に見合った、颯爽とした曲を、とおっしゃられていたが」
「脇能の神舞ですので、むろん颯爽とはしておりますし、年寄りにはきつい曲であることもたしかではございますが……」
能の正式の番組は翁付五番立である。翁の次、つまりは脇に組まれる曲を脇能、あるいは初番目物などと言う。いずれも神が神威を現してこの世を言祝ぐ。
「たとえ若く躰が利く演者であっても、実際に舞台の上で養老を颯爽と舞うのはそう簡単ではございません」
剛の意に反して、又四郎は恐さを煽る。
「もともと脇能は清々しくまっすぐなものでございます。どこもかしこも外連味なく、ぱあーんっと張っているものなのでございます」
神の能だ。そうあらねばならぬだろう。
「まして、養老の神は山神です。養老の滝を激り落ちる清澄な薬の水を豊かに産み出す巨大な山塊の神なのです。背筋をすっくと伸ばして美しく、しかし、力を漲らせて舞わなければなりません。躰をきっちりと保って、きびきびと動き、強づよと謡わねばならぬということです」
又四郎に煽りをゆるめる気配はない。
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