「おのずと養老は作為を拒みます。元来、能は半可な芝居心を撥ね付け、演者の色を受け付けぬ舞台ではございますが、その最たるものが脇能であり、養老なのです。すべてがあまりにまっすぐなので、小手先の繕いなんぞたちどころに露わになる。ですから、能役者はまず脇能から能へ入って、己れのうちに能の軸を育てます」
「軸」か、と剛は思う。岩船保の口から、軸という言葉を聞いたことはない。軸とはなにかを問おうとして唇を開きかけたが、すぐに閉じた。いまは養老の話の先を聞きたいし、それに、自分の能の師はあくまで保である。又四郎にはさまざまに教えられてきたし、教えられているが、ことはおそらく演能の大本に関わっている。保ではない者に元の元を導かれるとなると知らずに引く。剛はあらためて、江戸に移っても己れが野宮の役者のままであることを識る。
「養老で求められるのは技ではなく地であり、能にあって地とは軸に他なりません。おそらくは、修理大夫殿もそのあたりを見極めようとされているのではありますまいか」
また「軸」が出て、剛はとりあえず、軸とは強づよと謡い舞うために要る躰の心棒のようなものと理解する。心棒の強さならば己れを恃むこともできるが、問題は清々しく颯爽と勤めることができるかだ。養老は作為を拒むという。企んで現わせるものではない。はたして、自分に勤まるか。六歳から十五歳までの十年を、死を集めて流す野宮に逃れ、もろもろを怖れて生きてきた己れのうちに、颯爽が、清々しさが育っているのか。
「わざわざ小書にされたのが、また、なんとも……」
浮かぬ顔で又四郎がつづけて、剛の心胆はますます凍る。
「なんとも……なにか」
「いや、修理大夫殿は御藩主にどこまでを求められているのかと思いまして」
「どこまで、とは」
「同じ脇能でも本格二曲とされる高砂と弓八幡の神舞では、品よくきれいな足遣いをします。舞もシマラズ、つまり、動きを止めることなく一気に舞い納めます。ところが養老の神はなにしろ山神ですので上品さにも増して圧するばかりの力強さが伝わってこなければなりません。先ほどはきびきび動くと申し上げましたが、むしろ、ずかずかと足をハコブくらいでちょうどよいのです。舞もいったんシマッテからまたぐーんと高まって、うねりが生ずるように持ってゆかねばならない。とはいえ、能であり、神舞ですから、あくまで品格は保たなければなりません。逆に申さば、能ならではの品格を踏み外すことなしに、どこまでずかずかと野太く舞い切れるかを問われるのが養老なのです」
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