元子方の言葉はずいずいと入ってくる。
「それだけでもむずかしいのに、小書が付きますといっそうむずかしくなります。もともと養老の神舞は速いのですが、さらに速くなる。神舞の枠が外れる、と言ってもよいでしょう。こと養老の小書に限っては、能が武家の式楽になる前の、自由な舞に戻って構わぬとでもいうような了解があるのです」
「自由な舞……」
「かつて能にはさまざまな舞がありました。曲の数だけ、舞があったのかもしれません。それが公方様の御代となって式楽となり、管理統制と成熟が進むに連れて二十足らずに収斂されていった。すべての曲が、そのうちのいずれかを選ぶようになったのです。しかし、そうと定まっているわけではありませんが、養老の小書だけはあえて枠に嵌めぬと申しますか、厳密な目を向けぬと申しますか、そういう気分の雲のようなものが常にかかっているかに感じられます」
「なにゆえに」
「これも定かではございませんが、それがしが信じるのは、神舞はもともと養老の舞だったという説でございます。養老の舞が式楽となった能の神舞と定められて、他の脇能にも使われていった。そうだとすれば、いわば神舞の本家への敬意を、小書に込めたということになろうかと存じております」
「速いと、どうなる」
「卑近に申せば、ずかずかがばたばたになります。どたどたになります。己が躰を御せなくなるのです。地謡と囃子に追いつくだけでいっぱいになって、動きが、形がそっちのけになる。すなわち、能ではなくなります。品と美しさを失えば能ではありません。醜さをも美しく描くのが能です」
ふっと、美しさをも醜く描く己れの舞台が浮かんで、なんとか堪えていた恐れがつーと尖る。
「装束を着るのではなく、装束に着られもします」
変わらぬ様子で又四郎はつづける。
「養老の山神の装束は狩衣で、大きな袖を持ちます。なのに、身頃と繋がっているのは背側の左右のわずか五寸ばかりの縫い付けのみです。おまけに袖先にはツユという重みのある括り紐が一周しているので、袖が勝手に動きやすい。腕を振り回すと、ずいぶん暴れます。とはいえ、速い拍子に遅れまいとして袖を披こうとしたり巻き上げようとしたりすれば、どうしても振り回しがちになる。つまりは、袖にまつわりつかれるなどして装束に着られてしまうことになるわけです」
恐れはいよいよ尖って、なんで、あれほど舞いたいと願うことができたのかと剛は思い始める。
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