新幹線に乗り換えると、まどろみは深い眠りに変わった。光も届かない洞穴の底で、ただすうすうと息を吸って吐くだけの小さな生物になったかのような、自我も意識もなにもかもおよばない眠りだった。
それなのに、私はふと目を覚ましたのだった。
声をかけられたわけでも、新幹線が揺れたわけでもない。空調のきいた車内は静かだった。けれど、細い糸で音もなくひっぱりあげられるように、まぶただけがひらいた。
目の前に、烈しい男の顔があった。
傾きかけた陽に照らされ、目の奥でなにかがのたうっていた。あがくように、抗うように、命を燃やすように、ぎらぎらと暗く輝いている。その目が食い入るように私を見つめていた。
息を呑んだ。なぜか、食われる、と思った。
それは、いままで目にしたことのない人間の顔だった。今でも、その顔をなんと形容したらいいかわからない。
でも、不思議と恐ろしくはなかった。喉が詰まり、なぜだか泣きたくなった。目の前の男の頭を胸にかき抱き、声をあげて泣きたいと思った。
切なかった。そして、愛おしかった。
あの瞬間、私ははじめてあのひとを抱きたいと思った。抱きながら、あのひとに食われてしまいたかった。
けれど次の瞬間、すべては消え失せ、「口あいてたぞ」と唇の端をゆがめるいつもの全さんがいた。
「どうして」と私は言った。「知らねえよ、おまえの口だろ」と笑う声を遠く聞いた。
さっきまでの息苦しいくらい濃密な空気がひどくよそよそしいものに変わっていた。夢から覚めたような気分の中で、なにかを逃してしまった感触だけが生々しく残っていた。
どうして、眠る私を見つめていたの。
なにを考えていたの? 私が当たり前のように持つ若さや生を妬んだ? 運命を憎んだ? もう手に入らないものを見せつけられて絶望していた? もっと、もっと、生きたいと願った?
あのひとの目に私はどんな風に映ったのだろう。
眠れぬ夜、答えの返ってこない問いは、身の裡からつぎつぎにわいてくる。暗闇に伸ばした指先が、写真集のつるつるとしたカバーに触れた。
手をひっこめて寝返りをうつ。
あの時、私は「どうして」の後を言えなかった。あのひとが抱えるものにも気がつけなかった。わたわたと無様にごまかして、寝たふりをした。
あのひとはもう眠る私を見つめなかった。
そうして、私たちの一度きりの旅は終わった。
*
新幹線を降りると、「すみませんが、学校に寄ってもいいでしょうか」とわざとかしこまった口調で訴えた。
「夏休みじゃないのか」と驚く全さんに、まだレポート提出が残っていることと、そのための本を借りたいから図書館に行きたいのだと早口で伝える。半分は嘘だった。レポートのための資料はもう家にあったし、レポートの提出は夏季休暇明けでよかった。
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