けれど、おそらく不真面目な学生であっただろう全さんは気圧されたように「そうか、そうか、わかった」と顎を揺らして頷いた。
駅構内の人の群れを避けながら全さんがつぶやく。
「悪かったな、試験期間中に連れだして。おまえ、草むしりなんかして暇そうに見えたから」
「草むしり」
庭で雑草を抜いていたのは昨日のことなのに、ずいぶん昔に思えた。私に掴みかかってくる白いワンピースの女の人、車窓にひろがった海、西日に目を細める母の顔、そして、山の奥まで続く石段と杉の木立。数々の景色が脳裏を走り、眩暈に似た感覚におちいる。
「あれは気分転換ですよ」まだ帰りたくないという気持ちを隠して、また嘘をつく。すらすらと嘘がでるのが薄気味悪くも面白くもあった。
せめて日が暮れるまでは旅の残り香を味わっていたかった。いや、違う、全さんともうひとつくらい景色を共有したかった。夕飯に誘うには早い時間で、私が全さんを連れていける場所で思い浮かんだのは大学しかなかった。今なら人も少ないだろう。
混みあう電車に乗り、立ったまま横並びで揺られた。
一番高い位置にある吊り革でも、肘を軽く曲げた状態で掴める。ぶらさがるようにして吊り革につかまる背の低い友人たちは、たいてい途中から私の腕や背中にしがみつく。その柔らかな感触を思いだして羨ましくなる。私の身長が普通の女の子並みに低かったら、全さんの体に自然に手を伸ばせるのに。
想像してみて、ない、と思った。身長うんぬんの問題ではない。私にはそういった女性らしい媚態や愛嬌が皆無といっていいほどないのだから、自然になんて不可能だ。
吊り革の手を持ち替えると、Tシャツからすえた臭いがした。羽黒山で滝のように汗をかいたことを思いだす。すっかり乾いてはいるけれど、皮脂や塩気をたっぷりと吸い込んでいることだろう。
長袖シャツの全さんに目をやり、肩をかした感触がよみがえる。支えることならば自然にできるのかと思うと、笑いがもれた。
どうした、と言うように全さんが顔を傾けてくる。
「山で」あの時の全さんの必死の形相を思いだし吹きだしてしまう。「山で、全さんめちゃくちゃばててましたよね」
「そうだな」
吊り広告に目を向けながら頷く。
「感謝してくださいね。私、恩人ですよ」
全さんは週刊誌のごちゃごちゃした広告を見るともなく見て、「そうだな」ともう一度言った。
「おまえがいなきゃ死んでいたかもな」
大げさな、と思う。相変わらずの軽口。
「おまえ、牛みたいだった。足を踏みしめてぐいぐい登ってさ」
「前も言ってましたよね」
うんざりした声をあげながらも、前と違って針で刺されたような痛みを覚えた。牛か、荷を運ぶ頑丈なだけの動物。どうせ私なんか、という黒いもやが胸にひろがっていく。
「のろまとか、頑固とかいう話ならもういいですって」
なにか言いたげな全さんをさえぎり、リュックからペットボトルをだしてぬるい液体を口にふくんだ。喉に詰まり咳をすると、嘘くさい茶葉の匂いが鼻に込みあげた。
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