2018.06.07 別冊文藝春秋

『レフトハンド・ブラザーフッド』知念実希人――立ち読み

文: 知念 実希人

電子版19号

「なあ、そんなに怒るなって」

『うるさい。話したくない』

「こんな追い詰められた状況で、頭がどうにかなっちゃいそうだったんだよ。だから、我慢できなくて……」

『追い詰められた状況だからこそ、冷静にならないといけないんだろ。けれどお前はクスリに逃げたんだよ。卑怯者』

「卑怯者って、そんな言い方ないだろ」

『本当のことだろ。こんな大変なときに、のんきにまたあのお姉さんと一晩中いちゃつくなんて、なに考えているんだよ』

「なんでそのことを!?」

 昨日、品川のカフェでサファイヤを飲んでから今朝起きるまでの間に、左手の感覚は戻っていた。彩夏とのことは、海斗には分からないはずなのに。

『やっぱり、あのお姉さんと過ごしていたのか』

 海斗が呆れ声で言う。かまをかけられたことに気づき、頬が引きつった。

『あのお姉さんには近づくなって、何度も言っているだろ』

「彩夏さんのなにが問題だって言うんだよ」

『一昨日の駐輪場でのことを忘れたのか? 完全に目がいっちゃっていただろ。まともじゃないよ』

 手首を振る海斗を見ながら、岳士はぼそりと「仕方がないだろ」とつぶやいた。

『仕方がない?』

「あの人は、兄弟を亡くしたんだぞ。子供のときからずっと一緒に過ごしてきた兄弟を。それがどんな気持ちか分かるか?」

 海斗は答えなかった。

「彩夏さんは『世界が壊れた』って言っていただろ。まさにそんな感じなんだよ。それまで生きてきた日常が、鏡が割れたみたいに音を立てて木っ端みじんになるんだ。まともでなんかいられるわけないだろ。あの人は俺と同じなんだよ」

『……お前は、おかしくなってなんかいないよ』

「おかしくなっていない? 俺は、死んだ兄貴に左手を乗っ取られたなんて言ってるんだぞ。どう考えてもまともじゃないだろ。実際、そのせいで俺は精神病院に強制入院させられそうになった。彩夏さんより俺の方がはるかにやばいんだ」

 岳士は激情に突き動かされるままに、まくしたてる。

「俺と彩夏さんは似た者同士なんだよ。俺にはあの人の気持ちが分かるし、あの人も俺の気持ちを分かってくれる」

『だとしても、あのお姉さんには近づかない方がいい。あの人のせいで、お前はクスリに手を出したんだから』

 海斗の声には苦悩が満ちていた。岳士はかぶりを振る。

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