2018.06.07 別冊文藝春秋

『レフトハンド・ブラザーフッド』知念実希人――立ち読み

文: 知念 実希人

電子版19号

「サファイヤがなんだっていうんだ。少し気持ちがよくなるだけじゃないか。そもそも、あのクスリの効果がある間は、左手も元通りなんだ。ある意味、そっちの方がまともな状態じゃないかよ」

『サファイヤが効いている状態がまとも? ふざけるなよ。あのセーラー服の子を思い出せ』

 幸せそうな笑みを浮かべつつ、スローモーションで落下していく少女の姿が蘇り、激しい頭痛が走る。

『あのお姉さんといると、お前はまたサファイヤを使う。だから、もう近づくなよ。できればあの部屋も解約して、新しい隠れ家を……』

「うるさい! あの人は俺にとって必要なんだ。お前なんかより、ずっとな!」

 海斗が息を呑む気配が伝わってくる。自分が放ったセリフを反芻し、岳士は我に返る。

「いや……。別にそういう意味じゃ……」

 数秒の沈黙ののち、海斗は『着いたね』とつぶやいた。

「え?」

『目的地だよ』

 左手が前方を指さす。顔を上げると、数十メートル先に土手が見えた。あそこを越えれば、指定されたグラウンドへ着く。

『なにをぼーっとしているんだよ。さっさと行くぞ』

 岳士はためらいがちに頷くと、土手を越えて前回取引を行った野球用のグラウンドへとたどり着く。まだヒロキたちの姿は見えなかった。

『先に着いたみたいだね。ここでちょっと待っていようか』

 促されて一塁側のベンチに腰掛ける。さっき言ったことについて謝罪をしたかったが、どう切り出せばよいか分からなかった。

 お互い無言のまま、粘着質な時間が過ぎていく。

 プレッシャーに耐えきれなくなった岳士が口を開きかけたとき、唸るようなエンジン音が辺りに響いた。振り返ると、土手の上に無骨なSUVが停まっていた。中からヒロキが取り巻きの二人とともに降りてくる。

『ご到着だね。さて、行こうか』

 岳士は重い足を動かして土手を上がっていく。

「車で来たんですか?」

「おう、今日は普段の取引とはちょっと違うからな」

 ヒロキは軽く手を上げた。

「普段と違う? どういうことです?」

 訊ねる岳士の前に、取り巻きの一人が体を入れてくる。

「うるせえな。お前は黙って突っ立ってればいいんだよ」

「まあ、そういうことだ。今日の取引相手はこの前と同じ奴だ。まずトラブルになんかならねえから、気軽に構えてな」

 岳士の肩を叩いたヒロキは、じっと顔を見つめてきた。

「な、なんですか?」

「いや、なんでもねえよ」

 含みのある口調でヒロキが答えたとき、ワゴン車が近づいて来て、SUVに並ぶように停車した。

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