昭和十八年に『日本婦道記』が第十七回の直木賞に選ばれるが、山本周五郎はこれを辞退した。
《こんど直木賞に擬せられたそうで甚だ光栄でありますが、自分としてはどうも頂戴する気持になれませんので勝手ながら辞退させて貰いました》(「辞退のこと」)
自分は「新人」でも「新風」でもないからというのが表向きの理由だったが、実際には他にいくつかの理由があったと言われている。自分の原稿を粗略に扱った文藝春秋社主の菊池寛に対して含むものがあったらしいこと、吉川英治をはじめとする選考委員たちへの蔑視を含んだ拒否感があったらしいこと、などだ。
この「曲軒」には、「ヘソ曲がり」以外にも、「頑固」とか「気むずかし屋」という意味合いが込められているが、最も近いのは「意地っ張り」だろう。
意地っ張りというのはいくらか否定的なニュアンスを含んだ揶揄的な評言である。しかし、それを、意地っ張りという「性格」としてではなく、意地を張るという「行為」に比重を置いて見ていくと肯定的な響きを持つものに転化する。さらにそれが、意地を貫く、と言い換えられると全面的に肯定的なものになっていく。ここにおいて「意地」は、人間のドラマを生む重要な要素となるのだ。
山本周五郎の世界を生きる男たちを動かす重要なエネルギー源は「意地」である。
山本周五郎の小説世界の登場人物、とりわけ時代物の市井の男たちは、さまざまな意地を貫き通す中で光を放ち、輝きはじめる。
たとえば、「ちいさこべ」の茂次は大工の棟梁の息子だが、大火で焼けてしまった家を再建するのに誰の助けも借りないと意地を張り、その意地を貫きつづける。
同じ職人でも、江戸っ子ではない「こんち午の日」の塚次は、田舎者らしい鈍重とも思える行動の中に、やはり独特に張りつづける意地を見せることになる。
もちろん、意地は、市井の男だけのものではない。「裏の木戸はあいている」のように、貧しい庶民を助けるという、ほとんどヒューマニズムと分かちがたい意地を張る武士も出てくるし、「橋の下」のように、好きな女と生きるという意地を張り通した末の悲劇の中を生きる武士もいる。
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