そしてまた、山本周五郎の作品世界における意地は、市井の職人たちや武家社会の武士といった男たちの専有物ではないことになっている。
山本周五郎は、武士道や男伊達、一般に男らしさと言われているものへの懐疑心を抱いていたが、この意地というものだけは素直に受け入れた。その理由は、意地が必ずしも男だけのものではなかったからかもしれない。
茂次が意地を張りつづける世界を描いた「ちいさこべ」では、相手役として登場してくるおりつにも大火によってみなしごになった子供の世話をしつづけるという意地がある。そして、最初はその意地を打ち砕こうとする側に回っていたはずの茂次が、お上からの圧力がかかったとたんに護る側に回り、おりつが意地を張るのを認めるようになる。認めるだけでなく、おりつの意地が茂次自身の意地ともなることで、さらに茂次を輝かせることになるのだ。
意地が男だけのものではないことは、「法師川八景」のつぢという女性によっても明らかにされる。
つぢは、未婚の母となることで、恋人としての意地、娘としての意地、母としての意地を同時に張りつづける女性となる。
しかし、その意地が常に人を幸せにするものになるとは限らない。男を待ちつづけるという意地を貫く、さわという娘が登場してくる「榎物語」では、自分の意地がもたらした空白の年月を悔やみ、憑き物が落ちたかのように意地が消える瞬間が鮮やかに描かれている。
男と女の入り組んだ意地を描いているのは「ひとでなし」である。おようと康二郎と吉次という三人三様の意地が複雑に交錯する。永く胸に秘めていた愛を貫こうとする康二郎。最後の最後にそれを拒絶するおよう。その二人の姿を見て、本来、意地とは異なる世界に住んでいるはずの吉次が生涯最後になるかもしれない意地を見せるのだ。
また、「若き日の摂津守」では、大名家の世継ぎが「暗愚」の評の中を生き切るという意地を貫くことが、意地とは次元の異なるものになっていく様が描かれていく。
だが、一方で、山本周五郎はその意地を笑い飛ばすことも忘れていない。「よじょう」では、その敗残の姿を、世間からは逆に意地を貫こうとするがための仮の姿と誤解された男の哄笑が響きわたることになるのだ。
2へ続く
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