それは単なる観客の勝手な思い入れなのだが、“競技者が観客の代わりに闘っている”というのは、ある意味で真実だ。
かつて狩猟採集生活をしていた人類の、あるグループで、例えばツボを作るのが異常に上手い人がいた。その人は狩猟に行く代わりにツボ作りを任された。その人は“みんなの代わりに”ツボ作りに人生を捧げる。そういうのが目もくらむほど広がった先に、あらゆることが分業・専業化された現代がある。
つまり人々の闘争心や才能や努力を代表して、競技者は闘っているのだ。
競技者はきっと、そんなことは思っていないだろう。だが特に、ボクシングという競技を見るとき、僕はそういうことを感じてしまう。そういうことを感じさせてくれるボクシングという競技のことが、とても好きだ。
「幸福な錯覚」という記述が、この作品の前作にあたる『空の拳』にある。
自分も、試合を見ている彼らも、今、彼らとかかわっていると錯覚できる。自分がいのちと同等のものを張って闘っている、闘いの先に我らもまたいくことができ、勝者だけが見ることのできる景色を見られるという、この上なく幸福な錯覚である。
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