言葉を切った海斗は硬直している岳士の顔の前で、左手を一度開閉した。
『そういうわけで隣の部屋を買い取った翌日、あのお姉さんはいかにも前から住んでいましたという感じで、僕たちと顔を合わせたのさ。さらに一芝居うって、恋人から暴力を受けているふりをして、僕たちに近づこうとしたわけだ。お人好しのお前は、まんまとそれにのせられたんだよ』
「なら、あのときの男も……」
いまにも崩れ落ちてしまいそうな脱力感をおぼえながら、岳士はかすれ声を出す。
『ああ、偽物だね。金で雇ったのか、それともスネークの代表にでも頼んで、適当な男を見繕ってもらったのか分からないけれどさ』
「全部嘘だったっていうのかよ……。あんなに俺のことを……」
『愛してくれていると思ったのに、かい?』
小馬鹿にするような海斗のセリフに、岳士はただ右手の拳を握りしめることしかできなかった。
『いやあ、あながち全部嘘だとは思わないけれどね』
岳士は「え!?」と顔を上げる。
『だってさ、傍目から見てあのお姉さんのお前に対する態度、尋常じゃなかったよ。あれは演技なんかじゃないと思うんだ。そもそも、そんな演技をする必要がないんだよ。お前はあのお姉さんの大人の魅力にメロメロになっていたんだからさ』
「じゃあ、どういうことになるんだよ?」
岳士は混乱する頭を右手で押さえる。
『最初はサファイヤのレシピを奪うために近づいてきたんだとは思うよ、そしてあの色気でまんまとお前を虜にした』
揶揄されて岳士は顔の筋肉が歪む。
『けれどね、お前と付き合っていくうちにあのお姉さんも、お前に取り込まれていったんだと思う』
「俺に取り込まれて?」
『そうだよ。あのお姉さんが弟を亡くしているのは本当だと思うんだよね。すごく大切な弟を事故で亡くして、生きる希望を失ってしまった。これまでの話からすると、サファイヤを作りはじめたのも、そのせいじゃないのかな? あのお姉さん、もともと大学で化学を専攻していたって言っていたじゃないか。たぶんその知識を総動員して、絶望で耐えがたい現実を忘れさせてくれるクスリを作ったんだよ』
-
『赤毛のアン論』松本侑子・著
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募期間 2024/11/20~2024/11/28 賞品 『赤毛のアン論』松本侑子・著 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。