音のない家で一人、時計盤の周囲に百合の花が彫られたガラス製の置時計や、フローリングを傷つけないよう椅子の脚に装着されたフェルトのカバーを眺めるうちに、なんだか見知らぬ惑星に寝転んでいるような、怪しく心もとない気分になった。不時着した砂地から顔を上げ、そろりそろりと周囲を見回し、夫や子供を望まない人生を考え始める。床に手をついて頭を下げた夫の清潔なうなじや、乳を吸う赤ん坊の口の動きが意識をよぎる。目尻で涙が球を結び、しかしこれは、ただの反射だ。なくした、大きなものをえぐりとられた、そう思ってきたけれど、私は結局のところ、なにをなくしたのだろう。
日溜まりに差し入れた両手が温かい。眠さに負けて目を閉じると、手は自然と馴染んだ形を追った。手のひらに収まるほど小さな頭、平たい背中とおむつのごわつき、皮膚へ染み入る切ない体温。あの子に――なぎさに触れた時間は、気が狂いそうなほど苦しくて、でも、素晴らしかった。命が一つ、目の前で熱を放っていた。忘れていないし、きっともう死ぬまで忘れない。
それなら私は、失ったのではなく、得たのではないか。
「青子、ちょっとなにしてるの?」
怪訝そうな声とともに揺り起こされる。目を開けると、眉をひそめた母親の糸子(いとこ)の顔があった。青子は、両親がもう子供を持つのを諦めかけていた三十代の後半に思いがけず授かった子供で、慈しんで育てられた。糸子がアニメの曲を弾いてくれた年季の入ったアップライトピアノや、かつてたくさんの絵本を収納し、今は父親の健太郎(けんたろう)のレコード入れになっている背の低い本棚。幼い青子がたびたびチョークで家族の絵を描いた、壁に立てかけて使う小さな黒板。この家には幸福な記憶をよみがえらせる品物があちこちに置かれている。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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