自分の概念が打ち破られる瞬間に楽しさがある
━━子供時代から作家になるまでの道のりを自分なりに振り返ってみると?
川越 小さいころからずっと、受け答えがうまくできないというか、空気を読むというようなことがあんまりできなかったので、人とうまくやってこられたイメージが自分の中ではないんです。運動も全然できなくて、中学も高校も帰宅部。ただ高校に入った頃、何となくバンドをはじめて、それを通じて人と接していたような気がしますね。結局、30歳くらいまでバンドをやっていて、プロも目指していたといえば目指していたんですけれど、音楽が好きだったかといわれると実はそうでもない。何かバンドをやっていると面白い人たちが結構いるので、そういう人たちに会って喋っていたり、一緒にいたりするのが楽しくてバンドをやっていたような部分もあります。
━━大学では史学科だったそうですが、どのような分野を専攻されたんですか。
川越 何を専攻するか決める前に、大学に行かなくなってしまったので(笑)。もし、続けていたら何を専攻していたか想像することはありますけど、たぶん学問としては、「この時代」という風に歴史を細分化して決めていかなければならないのでしょう。僕は昨日以前のすべてに興味がある感じだし、すべてが連綿と繋がってこそ人の歴史は続いてきたと思うので、おそらく専攻は決められなかったはずです。そういう意味でも、興味の向くままに書ける歴史小説の楽しさを感じています。
ただ歴史関係の書籍を読むことは好きで、大学を辞めてから紆余曲折を経て、会社員になってからもよく読んでいました。たとえばアイヌを交易民族としてとらえた瀬川拓郎さんの『アイヌ学入門』(講談社現代新書)や『アイヌの歴史 海と宝のノマド』 (講談社選書メチエ)は、これまで何となく抱いていた表面的なアイヌのイメージを覆すものでした。読書や調べ物を通して、自分の概念が打ち破られる瞬間には、確かに「知る楽しさ」がありますね。大学時代に印象に残ったのは、伊藤正敏さんの『寺社勢力の中世 無縁・有縁・移民』(ちくま新書)です。中世の日本の神社仏閣は私領を持っていて、その中に通常の世界からはみ出してしまった人々が集まって、そこで再スタートを切っていったという……要するに俗世で生きていけない人たちが暮らす、セーフティーネットみたいなものが昔は昔なりにあったんですね。
本の中では「アジール」と表現されていましたけれど、現代はそういったアジールはどんどん奪われているような感じがします。バンドをやっている時、ライブハウスに行くとアジール的な雰囲気があって、どこにも行けないおじさんたちがそこに生息していたんですが、ああいう空間は、人間、そして社会にとっては必要なものなんじゃないか? 神社仏閣の中でもライブハウスの中でも、決して公権力によって強制されたわけでなく、自主的に社会に適応しきれない人のためにアジールが作られていった。そういう意味での人間の逞しさ、フリーハンドでも生きていく力があるんだよな、という感覚をインスピレーションにして、僕は小説を書いているんじゃないかと思っています。
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