知り合いにも、他人にも会いたくない。誰にも姿を見られたくないし、自分についてなにかを思われるのが嫌だ。そう感じ始めたら、元職場の周辺から順に、まるで板チョコを一列ずつ折りとるように「行けない場所」が広がっていった。同僚に会いたくない。同級生に会いたくない。近所の人に会いたくない。自分を評価する他人に、会いたくない。自分の部屋は、辛うじて手元に残ったチョコの一片で、存在が許される最後の場所だった。
枕元のスマホをつかみ、ディスプレイに表示されるデジタル時計を確認する。角張った四つの数字は午前十時を指していた。基本的に朝方に寝て午後に起きる生活をしているので、部屋に差し込んだ光のおかげで、ずいぶん早起きをしたことになる。
メッセージアプリには、母親からメッセージが届いていた。
【お店に行ってくるね! 夕飯は揚げものにしようと思うんだけど、唐揚げと天ぷらならどっちがいい? 玄ちゃんの好きな方でいいよ!】
玄也の母親は、日中は駅ビルの食品街にあるパン屋で働いている。玄也が部屋にこもり始めた当初は【夕飯はなに食べたい?】などの漠然としたメッセージが多く、返事が思い浮かばずにやりとりをほぼ放置していたけれど、いつのまにか母親は【AとBならどっちが食べたい?】といった聞き方をするようになった。確かにその方が、玄也にとって答えやすい。パン屋の従業員が着用する深緑色の三角巾を思い出しながら、玄也は親指を画面にのせた。
てんぷ、と打ち込んだところで、文字入力ソフトの動きがぎこちなくなった。唐突に画面が切り替わり、新しいメッセージの受信が告げられる。
心臓がばたたっと慌ただしく打った。メッセージの送信者は「AOKO」。なんだか覚えのある名前だが、それ以前にひどく焦った。母親以外の人からメッセージを受け取るのは数ヶ月ぶりだったからだ。母親とやりとりしている画面に戻ろう、とまごついた指が、誤って受信したメッセージの方を叩いてしまう。玄也と母親が利用しているメッセージアプリは、メッセージを開けば「既読」という通知が相手方にも届く。
しまった、と思った時には、AOKOのメッセージが画面に表示されていた。
【お久しぶりー、森崎でーす。ゲンゲンいかがお過ごしですか。実は先週から、茅乃と一緒に紀尾井町の道場に通い始めました。日曜日の午後の稽古に出ています。ゲンゲンや卓ちゃんにも会いたいので、気が向いたら顔出してねー。指導に当たっている遠藤師範も、二人に会いたがってた】
能天気で明るい文面に、面食らう。
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