見なかった、ではなく、見たくなかったのだ。先月、玄也は誕生日を迎えた。母親が自分の誕生日までにこの膠着した状況になんらかの変化が生じることを期待していたのは、どことない声のトーンや、言葉の選び方から分かっていた。心機一転、充電期間もそろそろ終わり、はじめは学校とかでもいいんじゃない?
玄也だって、なにもしなかったわけではない。実際、様々な就職や就学の情報サイトを眺めた時間も、短いながらあったのだ。
でも、その先に進む気にはなれなかった。仲間と一緒に、働きがいのある、お互いに高め合って、人の役に立ちたい、そんな文字の羅列を眺めていると、まるで目の前に巨大な氷の壁が現れたような肌寒さと尿意に襲われ、動悸が激しくなった。急いでブラウザを閉じ、体温のこもったベッドに戻ってかけ布団にくるまる。そうして玄也は部屋に閉じこもったまま三十一歳の誕生日を迎えた。ふがいない息子に、両親はちゃんとケーキと唐揚げを用意して部屋まで届けてくれた。最後にアルバイトを辞めてから、既に一年半の年月が経過した。履歴書の空白期間が広がるほど、二度と社会に戻れないのではないかという不安が膨らみ、余計に身動きが取れなくなる。
ジャムの瓶をつかみ、揺らした。こすれたシーグラスがちゃりちゃりと涼しい音を立てる。すべて家から自転車で十分ほど走った先にある海岸で拾ったものだ。洗い、乾かし、すごいでしょ、と得意になって親に見せた。世界のどこかからやってきた美しい断片は宝物だった。小学生の頃から二十代の半ばまで、ずっと。
もう二度と拾いに行けない。あの海岸は、勤めていた会社から近すぎる。
海岸だけじゃない。駅も、住宅街も、近所のコンビニも、子供の頃からなにも考えずにのびのびと歩いてきた場所は、どこもひどく居づらい場所に変わってしまった。働いていない、いい年して親に甘えている、ろくにしゃべりやしない、あいつはもうだめだ。実家の二階にこもっていると知られたらそんな風に噂され、不具合品の烙印を押されるのではないか。幽霊じみた恐怖が背中に張り付き、離れない。
-
『赤毛のアン論』松本侑子・著
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募期間 2024/11/20~2024/11/28 賞品 『赤毛のアン論』松本侑子・著 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。