書評

父から子に記憶を語り継ぐということ――佐藤優が村上春樹『猫を棄てる』を読む

文: 佐藤 優

父と子:猫を棄てる物語と放蕩息子のたとえ

歴史とは父から子にデータを継承していく作業

 歴史とは、父の世代から子の世代にデータを継承していく作業だ。この過程で不可避的に取捨選択がなされる。テキストならば編集作業だ。編集にあたってはトラウマとなる事柄を排除してはならないのだ。歴史とは、人々の相互連関によって構成される。歴史自体は集合的な塊として現れるとしても、それを構成するただ一人も失われてはならないのだ。

©︎高妍(Gao Yan)

〈我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけのことなのではあるまいか。/言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを“受け継いでいく”という一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。たとえそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、むしろこう言うべきなのだろう。それが“集合的な何かに置き換えられていくからこそ”、と。〉

 現実問題として、歴史を構成するすべての人の記憶を残すことはできない。しかし、少なくとも、記憶が失われないようにする努力をわれわれは続けなくてはならない。村上春樹氏が父から聞いた出来事を物語にしたことによって、日本兵によって斬殺されたもはや名前を復元することができなくなってしまったあの中国人の記憶が生きたのである。それは殺した側の歴史を継承するわれわれにとってトラウマを形成するものであっても、記憶を語り継ぐことをわれわれは神から命じられているのである。

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