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彫りの深いキャラクターと強いテーマで読ませる、大人の恋愛

彫りの深いキャラクターと強いテーマで読ませる、大人の恋愛

文:池上 冬樹 (文芸評論家)

『もしも、私があなただったら』(白石 一文)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

『もしも、私があなただったら』(白石 一文)

 だから、驚きつつも、心が揺れ動いた。美奈の夫の神代富士夫は、啓吾の同僚で、在職中は唯一無二の親友でもあった。子会社に出向をいいわたされた啓吾と違って会社の役員までのぼりつめ、経理操作に加担したとされ、東京地検特捜部の厳しい聴取にあっていた。その神代が逮捕される寸前だった。そんな時に友人の妻と付き合うことなど考えられなかった。だが、しかし思いがけないことがおきて、二人は心を通わすようになる……。

 紹介できるのはここまでだろう。退職して故郷に戻ってきたもののうまくいかない、それどころか第二の人生でつまずきそうになっているという、よくある話かなと思っていると、節々で驚くことになる。作者がすべてを一気に語らないからで、巧みに事実を隠しながら、読者をひっぱっていく。読者に提示する情報の順序を考えぬき、一つ一つの意外な出来事を事件のように作り上げていき、それを物語の駆動力として、緊張感を高めて最後まで引っ張っていくのである。本書では、近年の小説ほど意外性の連続とはいかないまでも、神代という男にしろ、美奈という女にしろ、最初に見えていたものとはまた別の側面を提示して、キャラクターの奥行きと謎をふかめていくから、頁をくる手に力が入る。

 とくに「あなたの子供を産みたい」と友人の妻からいわれる冒頭が印象深い。さきほど白石作品の特徴がいくつもみられると書いたが、この「冒頭で読者をひきつける驚きの事実(言葉・設定)の提示がある」というのがあげられるだろう。そのほかにも、主人公は挫折している、会社関係で失敗した人間関係がある、舞台は地方都市で生き生きと地方色(とくに飲食の愉しさ)をだしていく、男と女の関係に進展や変転があり、それが物語の駆動力となる、男と女の関係のありかたを再確認(再検討)する、生きる意味を深く捉えようとする……とあげられるだろう。それらのほかにも性的欲望と深層心理というテーマ、粉飾決算という題材、ビジネスで成功する方法(本書の場合、いかにバーを流行らせるか)など近年の作品で発展させているものが見受けられる。唯一、白石一文に顕著な、スピリチュアルなものに対する偏愛という特徴が、本書の場合は影がうすいけれど。

文春文庫
もしも、私があなただったら
白石一文

定価:781円(税込)発売日:2020年05月08日

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