別冊文藝春秋

『邪教の子』澤村伊智――立ち読み

文: 澤村 伊智

電子版32号

「別冊文藝春秋 電子版32号」(文藝春秋 編)

 飯田邸を訪問してからしばらくの間、わたしは何も考えられなくなった。茜のことは勿論、光明が丘のことも、それ以外のことも全て。

 夜は眠れず、朝は起きられず、食事も味がしない。学校に行っても上の空で、先生に何度も怒られたけれど、彼女の憤怒の表情も、金切り声も、とても遠くに感じられた。

 茜に拒絶された。

 わたしは茜を傷付けた。

 その衝撃があまりにも大きすぎて、わたしの心の灯は吹き消されてしまった。世界から否定されているような気がした。

 大袈裟にも程がある反応だった。一人の人間に突っぱねられたところで、何がどうなるわけでもない。だが、それは今だから言えることだ。あの頃のわたしは驕っていた。

 闇夜の国から這い出したばかりの、当時のわたしは解放感に浸り、万能感に酔っていた。だから茜を助けようとした。偶々目に留まった、不幸そうな人間に手を差し伸べた。自分では善意だと思っていたが、実際のところは傲慢だっただけだ。

別冊文藝春秋からうまれた本

別冊文藝春秋 電子版32号(2020年7月号)文藝春秋・編

発売日:2020年06月19日


 こちらもおすすめ
インタビューほか澤村伊智「このエッセイもまた小説の趣向の一部なのだ」(2020.04.20)
別冊文藝春秋『邪教の子』澤村伊智――立ち読み(2020.04.20)