幻庵の数々の挫折の中でも最大のものは、天保六年(一八三五年)の松平家碁会において、弟子の赤星因徹を丈和と対局させたことでしょう。その顛末は、本文を読んで頂ければと思いますが、それにしても、幻庵が自分で打たなかったことは、返す返す惜しかった。しかし、彼は弟子の才能に惚れ抜いてしまっていたのでしょう。芸事においては、仕方のないことかもしれません。それほど赤星因徹の才能がずば抜けていたのです。
幻庵は名人碁所に執着する一方、「恥ずかしい碁は打ちたくない」と考えています。この気持ちは全ての碁打ちにあるものです。私も、いくら数多くのタイトルを取ろうが、そんなことは本当に重要なことではないと思っています。恥ずかしい棋譜だけは後世に残したくない。棋譜を見ればその棋士が強かったか弱かったか、一目で分かってしまうからです。これが碁の恐ろしさでもあり、尊さでもあります。晩年の幻庵が、ある棋譜に万感の思いを込めて人生を振り返るシーンがありますが、そのような棋譜を一つでも残せたら、碁打ちにとってこの上ない幸福なことでしょう。幻庵は実人生においては敗者だったのかもしれませんが、囲碁の世界では紛れもない勝者だったのです。
最後に、現代囲碁におけるAIに言及しておきます。本作品が単行本として出版されたのは二〇一六年十二月のこと。それから三年半の間、AIは日進月歩の進化を遂げ、今やAI同士が対局し続けて鎬を削るようになり、人間は完全に敵わなくなってしまいました。百田さんはもちろんその辺りの事情にも明るく、加筆や付記といった形で最新情報を紹介されています。私は決してAIに詳しくはないのですが、中国の「GOLAXY」が検討した「吐血の局」と「耳赤の局」の棋譜を見ますと、AIが席巻してもなお残る、人間の打つ囲碁の魅力というものを感じます。「丈和の三妙手」や「耳赤の手」は、勝つためには確かに最善手ではなかったのかも知れません。しかし人間の感性からすると、やはりただの石である碁石をそこに打った瞬間に、体が震えるほどの感動を覚える手というものがあるのです。
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