現代でも棋士のライバル関係は、もちろんあります。私でいえば、木谷道場の同門である小林光一(こばやし・こういち)さんとは、百何十戦も戦って、ほぼ五分五分です。ただ、現代の囲碁のタイトルは、いわばプロテニスに似ているところがあります。対局は一年中あり、国内外に数々のタイトルがあり、連覇したり、取ったり取り返したりしているわけです。しかし、江戸時代のライバル関係は、家名を背負いますし、何より「名人」という地位の重みの次元が違いますから、勝負に賭ける思いも、憎しみの感情も、今とは比べ物にならなかったのではないでしょうか。
それが具体的な形になって現れたのが、名人碁所をめぐる幻庵と丈和の「天保の内訌(ないこう)」です。ここで戦いは盤上のみならず、盤外の駆け引きや権謀術数へと広がり、この物語の大きな読みどころになっています。興味深いのは、この辺りから幻庵は流転の人生を歩み始めるところです。彼はその後も、名人碁所へのわずかな望みを繋ぎつつ、ことあるごとに碁を打ちますが、一方で、実人生においては突飛とも思える行動を繰り返し、いくつもの大きな挫折を経験します。
中でも、清国への密航を企てた点は、幻庵の囲碁人生をよく表しています。この時代の密航は見つかれば死罪ですが、彼にはそんなことは関係ない。百田さんも書かれているように、当時の清国は太平天国の乱で混乱していて、囲碁などといういわば「遊び」を広めたところで、何にもならないかもしれない。しかし彼の中では、当たり前に筋が通っているのです。彼にとって、囲碁は何よりも尊い。囲碁の世界は、現実の政治や社会を超越している、とさえ思っていたわけです。ここに他の棋士とは違う、彼の天才性とスケールの大きさを感じます。
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