不穏な空気が漂い始めましたのは、実際に順番待機列に並ぶ段になってからです。
「いや、お化け屋敷でそんなに緊張します?」
不思議そうに問われて、いやいやいや、と私は猛烈に首を横に振りました。
「むしろ松崎さんはなんでそんなに平然としているんです? めちゃくちゃ怖いですよ」
「じゃあ私は私のペースで行くので、阿部さんは阿部さんのペースで楽しんで下さいね」
「あ、はい……?」
事前情報で、ちょっと追っかけられて走ったりするらしいと聞いていたので、この時は「逃げる時はお互い気にせずにってことかな?」と思ったのです。
それがとんだ勘違いだったと分かるまでに、そう時間はかかりませんでした。
ホラー水族館は、少人数のツアーを組み、夜の水族館を観覧する形で行われます。
先にネタバレしてしまいますと、観覧途中にセイレーンが逃げ出したと知らせが入り、惨殺された飼育員さんを横目になんとか脱出を目指す――といったストーリーでした。
いよいよ館内に入った私は、怯え切っていました。ただでさえナメクジ並みのホラー耐性しかないのに、何の因果か先頭になってしまったのです。
そして、そんな私を後目に、松崎さんはずんずん前に進んで行きました。
颯爽と先頭を闊歩し、黒い布とかをノータイムでバサバサめくっていくのです。
「ほげえ、怖いですねぇ松崎さん」とか悠長に言っていた私も、
「あれ、松崎さん?」
「まつざ――」
「松崎さん……?」
「松崎さん!!!?」
と、途中からセイレーンを怖がればいいのか松崎さんの行動を怖がればいいのか分からなくなっていました。「お化け屋敷とジェットコースターは先頭が一番面白いですし」とかおっしゃるし、あまりに躊躇いがないので私の後ろにいた学生さん達まで「え、あのお姉さんすごくない……?」と呟いていたくらいでした。
しかも反応が反応なのです。
トイレで血みどろになっている飼育員さんを見つけた時の言葉が、「あ、死んでる」の一言だったのはあんまりだと思いました。しかもその直後に暗い階段を降りなければならなかったのですが、へっぴり腰で半泣きになりながら「松崎さァん!」と私がいくら連呼しても、当然のように彼女は止まってくれませんでした。あまりに強い。
最終的に、松崎さんがいてくれたおかげで怖いという気持ちよりも「楽しかった!」という気持ちのほうが強かったので、そこは大変助かりました。そしてセイレーンは大変美しかったです! こういった幻想生物的なものは実に良いですね。ちなみに松崎さんの感想は「グループ制じゃなくて一人のほうがもっと楽しめたかな」だったので正気かこの人と思いました。
松崎さんと初めてのお化け屋敷を体験したのは、ある意味大正解で、ある意味大失敗でした。最初の隣が強すぎたせいで、もはや彼女がいないとお化け屋敷に行けない体にされてしまった気がします。また、無事に初お化け屋敷を済ませて誇らしい気持ちになっていた私に対し、「じゃあ、次はガチで怖がらせて来る系に行きましょうよ。本気で追っかけられたりするとなかなかですよ」と言われた時の笑顔は忘れません。絶対に嫌だよ。
阿部智里(あべ・ちさと) 1991年群馬県生まれ。2012年早稲田大学文化構想学部在学中、史上最年少の20歳で松本清張賞を受賞。17年早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了。デビュー作から続く著書「八咫烏シリーズ」は累計130万部を越える大ベストセラーに。松崎夏未氏が『烏に単は似合わない』をWEB&アプリ「コミックDAYS」(講談社)ほかで漫画連載。19年『発現』(NHK出版)刊行。現在は「八咫烏シリーズ」第2部『楽園の烏』を執筆中。
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