藤沢周平氏のファン読者であり続けてきた。書き手の人物像と作品のよってきたる源を思いやることがあるのだが、『半生の記』があり、担当した編集者たちの回想記があり、長女・遠藤展子(のぶこ)さんの著がある。さらに、遠藤さん一家を取材する機会にも恵まれ、おおむね、わかったような気に私はなっていた。
そこへ、本書『藤沢周平 遺された手帳』が刊行された。手帳および三冊の大学ノートで、藤沢が作家として出発する前後の時代の心模様が記され、解読を助ける展子の文が添えられている。藤沢のコアを知る貴重文献がもう一冊、加わったように思えた。
結核の療養を終えたのち、藤沢は中学教員に復帰する道を断念、東京へ出て業界紙の記者となる。伴侶の悦子は、山形・鶴岡の同郷人。三十代半ば、小説を書くことを企図し、「読売短編小説賞」に現代小説を応募、あるいは大衆小説誌に草創期の時代小説が載ることもあった──。
このあたりの前史はよく知られていようが、『手帳』は、展子が誕生した昭和三十八年より書きはじめられている。一家は練馬区から清瀬市に転居するが、悦子が母親に宛てて出すはずだった手紙にこんな一文が見られる。
【早速、食事のテーブルを買いました。大きさは机と同じですが、折りたたみでとても便利です。いつでもすぐ仕事が出来るので大喜びです】
展子の解読によれば、「机」というのは執筆用の文机の事で、この机は食事用にも使っていて、湯呑み茶碗の痕なども残っていたとか。慎ましくも平安な家族の風景が浮かんでくるが、この年の秋、舞台は暗転する。悦子が二十八歳の若さでガンで亡くなる。藤沢は乳飲み子を抱えて立ち往生するのである。
【10月13日 ……しかしきびしいかな、これが人生というものなのか。人は死をまぬがれることができぬ。展子のために、生きられるだけ生きてやらねばならないだろう】
【10月29日 まだ雨晴れぬ。夜、濡れて帰る。缶詰、白菜のつけたもの。それと卵を買って。波のように淋しさが押し寄せる。狂いだすほどの寂しさが腹にこたえる。小説を書かねばならぬ。展子に会いたい】
このころ、展子を鶴岡の悦子の実家に預かってもらう時期もあった。やがて祖母(藤沢の母)が上京し、三人暮らしがはじまっていく。以下は翌昭和三十九年のもの。
【1月9日 展子、風邪ほとんどなおった】
【3月10日 展子、始めて三歩程歩いた】
【5月5日 ……老いた母は昏々と眠っており、展子は小さい生命。これが私の家族なのだ。悦子はもういない。これが人生というものだろうか】
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