展子にはもちろん、生母の記憶はない。その姿も写真で知るのみであるが、歳月を経たいま、父母の思いを受け止めつつ、こう書いている。
「人生の一番良い、これからというときに母は逝ってしまったので、父にとっては夢のような記憶は辛さを伴うものとなってしまいましたが、私は辛くても悲しくても、若い父に楽しかった時期があって、母が父にそのような記憶を残していってくれて良かったと、母には感謝したいと思います」
藤沢の場合、作家への出発は、ある決意を込めたものだった。業界紙「日本加工食品新聞」の編集長となり、休みを縫っての執筆であったが、オール讀物新人賞への応募をはじめている。昭和四十年上期(最終候補)、同年下期(二次予選)、四十一年上期(三次予選)……。当時、新人賞の賞金は十万円。こんな記述も見える。
【悦子の二周忌が11月。その時に当選のお金で墓を立ててやりたい】
昭和四十四年、藤沢は高澤和子と再婚する。展子は幼稚園児。新しい母を迎えた四人暮らしがはじまっていく。翌年、一家は東久留米市金山町に転居するが、大学ノート「金山町雑記」はこの地名から拝借されている。なお、祖母はやがて鶴岡へ戻っていく。
北斎の晩年を描いた「溟(くら)い海」でオール讀物新人賞を受賞するのが昭和四十六年上期。展子はこの頃の父の心境を『半生の記』より引用している。
《小説は怨念がないと書けないなどといわれるけれども、怨念に凝り固まったままでは、出てくるものは小説の体をなしにくいのではなかろうか。再婚して家庭が落ちつき、暮らしにややゆとりが出来たころに、私は一篇のこれまでとは仕上がりが違う小説を書くことが出来た。『溟い海』というその小説がオール讀物新人賞を受けたとき、私はなぜか非運な先妻悦子にささやかな贈り物が出来たようにも感じたのだった》
悦子と、死産で生まれた長男のお墓が都立八王子霊園につくられたのはこの三年後とのことである。
二足の草鞋(わらじ)を履きつつ、藤沢は精力的な執筆活動をはじめていく。本書から読み取れるのは、後年の藤沢作品の芽がいくつか垣間(かいま)見えることだ。
「溟い海」は直木賞候補にもなるが、続いて、「囮(おとり)」(「オール讀物」)、「黒い繩」(「別册文藝春秋」)も候補となる。直木賞を受賞するのは「暗殺の年輪」(「オール讀物」)で、昭和四十八年上期、藤沢四十五歳の日であった。
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