「業界紙の記者と編集長をしていた父は、小説を書くことと、サラリーマン生活との二重生活がだんだんに難しくなっていました。とはいっても、家には母と私がいるので、会社を辞めるわけにもいかず、悩んでいた時期だと思います。……ただ、父の小説には、やはり業界紙時代の経験が大きな影響を及ぼしています。会社のごたごたも、同僚の心の中まで想像し、時代小説の中で人間関係の描写としての表現につながっているのでしょう」
その通りだと私も思う。後年から見れば、小説家としての本格的なデビューが遅れたことを惜しむ気持もあるが、その間、結果として多くの養分を摂取していたともいえよう。人に対する目線の低さというのもこの時代に養われたものだったかもしれない。
昭和五十年の年頭、藤沢はこう記している。
【行きづまらないためには、飛躍がなければならない。作風の飛躍というものが、受賞直後から私の頭の中にある。恐らくそれをつかまえることが出来るかどうかが、私の作家生活の鍵になるだろう】
およそ一年後、雑記ノートのラスト近く、こんな一文が見える。
【「江戸の用心棒」というシリーズを考えている。ハンサムで腕っぷしが強く、武家勤めに愛想をつかしている浪人が主人公。早田伸十郎。気楽に世の中を渡りたいと思っている】
藤沢の読者であればもちろん、「用心棒日月抄」「青江又八郎」の原型メモであることがわかるであろう。軽妙とユーモアの味は、このころから滲みはじめたひとつの「飛躍」だった。
やがて藤沢は、主要小説誌に連載をもつ時代小説作家となっていく。けれども、展子にとって父は、以前と同じように、シャイで、義理固く、金銭への執着はまるでなく、断り事の苦手な、自身のこだわりや努力は見せたがらない……「お父さん」であり続けた。
昭和五十一年秋、藤沢家は金山町から練馬区大泉学園町に転居し、「金山町雑記」は閉じられている。
本書の「終わりに」で、展子は「父はいずれ、私がこの手帳を見ることはわかって遺してくれたのだと思います」と記している。
読み人を想定しない、したとしても遠い歳月を経た後に、たった一人の読者に向けたものであろう私的な手帳は、本書によって公のものとなった。作家・藤沢周平の源流を解き明かす貴重な肉声としてあり続けていくだろう。
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