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藤沢周平は小説家のもう一つの仕事として、あるいは余技として、生涯俳句を作りつづけたのではない。俳句とのかかわりは、かなり特異といってもよい。そのあたりの事情をまず明らかにしておきたい。
《私が俳誌「海坂」に投句した時期は、昭和二十八年、二十九年の二年ほどのことにすぎないが、馬酔木同人でもある百合山羽公(ゆりやまうこう)、相生垣瓜人(あいおいがきかじん)両先生を擁(よう)する「海坂」は、過去にただ一度だけ、私が真剣に句作した場所であり、その結社の親密な空気とともに、忘れ得ない俳誌となった。》
本書の冒頭に置かれた「『海坂』、節のことなど」(正しくは「海坂」は一重カギで表記)からの引用である。この文章は、藤沢周平が小説で使った「海坂」という東北の架空の小藩の藩名がどこに由来しているかを語ってもいる。
この「うつくしい言葉」を小説を書くにあたって「無断借用したのである」と、作家は打ち明けている。さらにいうと、このエッセイは自らの俳句とのかかわりを語るだけでなく、話を明治・大正期の歌人・小説家である長塚節(ながつかたかし)に移している。藤沢は長塚節の伝記小説の名品『白き瓶(かめ)』を書いているのだから、この話じたいもきわめて興味深いのだが、この場では本書後半の随筆九篇とあわせて、藤沢周平の俳句との関係だけに話をしぼってゆくことにする。
昭和二十六年、山形県は庄内地方の湯田川中学校の教師だった小菅留治(藤沢周平の本名)は検診で肺結核が発見された。昭和二十八年二月、鶴岡市の医師のすすめで、東京都北多摩郡東村山町の篠田病院・林間荘に入院。六月に三度にわたる大手術を受けた。
肺結核はストレプトマイシンの普及によって決定的な死病から抜け出しつつあったが、予断を許さない病気であったのはいうまでもない。郷里を遠く離れて、孤独のなかで「死の影を見ていた」(藤沢の言葉)青年の心情について、ここでは詳しくはふれない。結核という病気が現在とは大きく異なって受けとめられていたことだけは、知っておかなければならない。
篠田病院に入院早々、入院患者だった鈴木良典がいいだして、俳句同好会ができた。誘われて藤沢周平もこれに参加した。会員は十人ほど。患者、看護婦、事務所員などが集まり、名称は「野火止句会」。ガリ版刷の同人誌「のびどめ」を出した。
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