- 2021.05.20
- 書評
「杉村三郎は、防げない」――私立探偵という職業を選んだ男が負う役割とは
文:杉江 松恋 (作家・書評家)
『昨日がなければ明日もない』(宮部 みゆき)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
創作秘話の二つめは、杉村の年齢設定に関することである。『希望荘』執筆時に宮部は彼を若返らせている。「ギリギリ三十代で探偵にならせ」るためだ。シリーズ第一作の『誰か』は二〇〇三年の出来事なのだが、冒頭で三十五歳と杉村の年齢は記される。それに従えば二〇一一年には四十三歳のはずだが、『希望荘』第一話の、二〇一〇年十一月に始まる「聖域」では三十八歳と彼は語っている。たしかに五歳ほど若返っているのである。
「ギリギリ三十代」は絶妙な設定であった。もう中年というべき年代に差し掛かっているが、不惑と呼ばれるにはまだ少し経験が足りない。探偵業という未知の世界に乗り出すには、分別盛りの四十代では少し遅すぎると宮部は考えたのだろう。活動期間の長い探偵キャラクターの年齢設定が変更されるのは珍しいが前例のないことではない。たとえばローレンス・ブロックの創造したマット・スカダーは、中途から作家とほぼ同年齢になっている。杉村とは逆に歳を取った例で、作者が主人公を自分に近づける必要を感じたための改変である。
同インタビューでは「杉村が探偵になるまでには最低、長篇二作は必要だと思っていました」との発言もある。傍証のない憶測だが、作者の肚づもりでは『誰か』『名もなき毒』を準備期間として、杉村は三作目で私立探偵として立つ予定だったのではないだろうか。
無力であり、事件のたびに傷つかずにはいられない。だが、彼の力を借りたい人はどこかに必ずいる。杉村三郎はそうした主人公だ。読者もまた、彼の「目」を欲している。それなしには見えないもの、視界に入らない闇がこの世界には存在するのだから。
図らずも本文庫は、新型コロナウイルス流行下での刊行となってしまった。前年に始まり一向に収束を迎えることがない状況は、この社会には非常に脆弱な部分があり、普段はそれが不可視領域に押し込められているだけであることを皮肉にも明らかにした。存在しながらないことにされてしまっている虚無は不安の温床となるだろう。
杉村三郎よ、今こそあなたの「目」が必要なのだ。
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