- 2021.05.20
- 書評
「杉村三郎は、防げない」――私立探偵という職業を選んだ男が負う役割とは
文:杉江 松恋 (作家・書評家)
『昨日がなければ明日もない』(宮部 みゆき)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
杉村三郎は、防げない。
この世で起こる災いを。人が人を傷つけてしまうという、哀しい行為を。
神ならぬ身であり、ただの人間にすぎない杉村にできることは限られている。事のなりゆきを見届けることだけだ。それがわかっていながら、他人の人生に関われば、時には辛い出来事も見なければならないと知っているのに、彼は私立探偵という職業を選んだ。
誰かが、見届ける役目を果たさなければならなかったからだ。
『昨日がなければ明日もない』は、宮部みゆきの杉村三郎シリーズ第五弾にあたる中篇集である。そう聞くと、第一作から読まなければならないのでは、と身構える方もいらっしゃると思う。心配ご無用。ページを開けば、すっと問題なく小説世界に入っていけるのだが、念のためにシリーズの基本設定だけ書いておこう。
杉村三郎は三十八歳で私立探偵になった。その点を除けば、どこにでもいるような、ごく普通の中年男性である。もともとは犯罪の世界とは無縁で、今多(いまだ)コンツェルンという大企業体の社内報を作る編集部にいた。コンツェルン会長の娘と結婚していたことから正規の職務ではない仕事をする機会が何度かあったのだが、それが縁で思いがけない転職を果たすことになったのである。いろいろあって妻子とは別れ、今は一人暮らしをしている。これもいろいろあって、竹中さんという大家族の邸を間借りする形で自宅兼事務所を構えた。
最初の「いろいろあった」ほう、つまり杉村の今多コンツェルンを辞めて一人になるまでが、『誰か Somebody』(二〇〇三年。以下すべてシリーズは現・文春文庫)『名もなき毒』(二〇〇六年)『ペテロの葬列』(二〇一三年)という三長篇で書かれている。『名もなき毒』は第四十一回吉川英治文学賞受賞作でもある。時代小説からSFまで幅広く手掛ける宮部ではあるが、二〇〇〇年代以降に発表した現代小説の代表作は、と問われればこの三作を挙げなければならないだろう。だから重要な作品なのだが、杉村三郎の物語においては「私立探偵になるまで」の前史なので、「なってから」を読んだ後で手に取っても遅くはない。
二番目の「いろいろ」が、二〇一六年に刊行された『希望荘』である。これは杉村の身辺整理譚にもなっており、妻子と別れた杉村はいっぺん郷里の山梨に帰り、三十代にして思いがけないニート生活を送ることになる。そこから調査会社を営む蛎殻昴(かきがらすばる)と出会うなどの偶然が重なり、ついに杉村探偵事務所を構えるに至る。これも、そういうことがあったのだ、という知識だけがあれば本書を読むのにまったく支障はない。
さて、『昨日がなければ明日もない』である。
本書は、三作を収録した中篇集だ。最初の「絶対零度」(「オール讀物」二〇一七年十一月号)には、筥崎静子(はこざきしずこ)という依頼人が登場する。自殺未遂をした娘の優美(ゆうび)に彼女は会いたいのに、その夫・佐々知貴(ささともき)に見舞いを拒絶されているのだという。自殺未遂の原因は妻と義母との確執だ、と娘婿は主張しているそうなのだが、静子には身に覚えのない誹りである。優美との関係は良好だったからだ。知貴の言動の裏にあるものを調べるため、杉村は動き始める。
話の構造から、ある先行作を連想した読者も多いのではないだろうか。マイクル・Z・リューインが一九七八年に発表した『沈黙のセールスマン』(ハヤカワ・ミステリ文庫)である。この長篇はアルバート・サムスンの探偵事務所に、入院した夫に会わせてもらえないという依頼人がやって来ることから始まる。導入部がそっくりなのだ。違いは、依頼人を拒んでいるのが夫の勤務先の人間であることで、傘下に病院まで抱えるような大企業と個人事業者にすぎない私立探偵のサムスンが闘わなければならなくなる展開が緊張感を呼ぶ。
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