私も小説の中で、登場人物の科学者に「目的のためには、手段を選ばない。これは研究をやる上で一番大事なことだ」という台詞を言わせたことがある。かつて地球惑星科学の研究者であった私自身、この考え方を是としてきた。手段を限定すると、その手段によって実現可能なものへと研究の中身が変質し、当初の目的を見失ってしまうことが往々にしてあるからだ。
しかし、この台詞に不穏な響きを感じるのもまた当然のことだと思う。その手段が人々や社会に害をなす可能性のあるものだったらどうするのか。ましてやそれが一人歩きしてしまったら。かの有名な「怪物」を生み出してしまった科学者フランケンシュタインも、もともとは「生命の原理」に迫ることを目的としていたのだ。
そこで考えるべきは、現代の合成生物学における「怪物」は何か、ということになる。言い換えれば、私たちを戦慄させるものの正体だ。須田氏は本書で三つの大きな問題を提起している。
一つは、ゲノムに人間の手が加えられた生物が生態系に与える影響である。とくに、第三章で語られる究極の遺伝子編集技術「CRISPR-Cas9」を「遺伝子ドライブ」という現象に組み込んだときの効果は劇的だ。遺伝子を改変した個体を少数、自然界に放つだけで、何世代かのちには集団のすべての個体にその遺伝子が伝わるのである。この技術を用いれば、伝染病を媒介する生物や、その土地の固有種をおびやかす外来種を根絶やしにすることもできる。しかし、こうした介入によって何かまずいことが起きているとわかったときには、もはや手遅れだろう。自然が長い時間をかけて選び取った絶妙なバランスの生態系を取り戻すことは、おそらくできない。
二つ目の問題については、第四章から第七章にかけて詳細に検討されている。合成生物学の軍事目的での使用だ。この分野が生物兵器の開発に近接していることは想像に難くないだろう。しかし、須田氏も述べているように、軍民に両用できる「デュアルユース性」は、合成生物学や原子核物理学に限らず、あらゆる科学技術が内包している。
一見戦争とは無縁に見える地球惑星科学とて、例外ではない。私は以前、太平洋戦争において日本軍がアメリカ本土に向けて放った「風船爆弾」を題材にした短編小説を書いた。この気球兵器を開発したのは、生物兵器の研究でも知られる陸軍登戸研究所。秘密裏に始まった開発の背景には、気象学上の重要な進展があった。高層気象台初代台長、大石和三郎によるジェット気流の発見である。欧米に先駆けたこの知見がなければ、太平洋を横断する気球兵器を軍部が着想することはなかったであろう。他にも、塹壕や陣地の位置決定に地質学者が関わった例、ソナーによる潜水艦探知ができない水温躍層の調査に海洋学者が駆り出された例などがある。
第四章で旧ソ連の生物兵器開発が紹介されているように、戦時下や冷戦下においては、科学者が半ば強制的に体制に組み込まれていった。現代の民主国家でも有事となれば同じようなことが起こり得るだろうが、平時においても研究者と体制とをつなぐ鎖は皆無ではない。須田氏が指摘する、研究費を通じた科学者の「飼いならし」である。とくに、米国の合成生物学分野には、国防総省の「DARPA(国防高等研究計画局)」から巨額の予算が流れているという。
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