一九八〇年代、文化、カルチャーの世界を席巻していたのはセゾン文化、つまり堤清二その人が作り出したものでした。堤さんはぼくが西武百貨店の仕事をさせてもらえるようになった頃(八〇年頃)から見上げるような存在でした。
当時、ぼくは三十二歳とか三十三歳の圧倒的なガキでしたから、社会の荒波の中にいる人というのを知らなかった。それを教えてくれたのが堤さん。こういう人が大人なんだと思った。
堤さんとぼくとの関係は、仕事を発注する大工の棟梁と職人みたいな関係でした。だけど、堤さんはぼくのようなガキの存在を認めてくれて、仕事場での会話は、なんだか学生同士のやりとりみたいなものでした。
ぼくが世の中に出ていくきっかけとなったのが、池袋西武百貨店リニューアルの時に作ったコピー「じぶん、新発見。」というものでした。八〇年のことです。
水中で幼い子供が泳ぐビジュアルで、以前からとてもやりたかったものでした。それを発注者である堤さんにプレゼンするわけです。こうこうの理由でどうしてもやりたいって。そうすると堤さんは、たいてい、「それができたら面白いですねー」とか「それは面白いですね」って。つまり、ぼくみたいなガキの提案であっても「理解していますよ」とはっきりと伝えてくれる人でした。
堤さんが社長でなかったら、果たしてぼくのコピーは世に出たのだろうかって思います。それに西武百貨店の場合、堤さんがOKを出せばすべてOKで、他の会社のように部長とか、役員とかへのプレゼンは一切なかったから……。もし普通の会社だったら、ぼくのコピーは社長提案の前段階でボツになっていたかもしれない。
今にして思えば、堤さんの前で平気で乱暴なこともしてました。堤さんたちにプレゼンする時は、大きな丸テーブルでやっていました。本来であれば、しっかりとしたプレゼン資料を作るんでしょうが、ぼくの場合は、原稿用紙にえんぴつ書きのようなものだった。それを何部もコピーを取っては、出席者に配っていました。
プレゼンの時、常に堤さんの横に座っては、これはこうで、あれはこうでと説明をしていたけども、近くにいたアシスタントはいつもヒヤヒヤしていたみたいです。ぼくは一応は靴を履いてはいたけども、途中で脱いで椅子の上に正座したり、しゃがんだりしてましたから。いまから思えばずいぶん失礼だったけど、堤さんに咎められたことは一度もありませんでした。
「おいしい生活。」
前年の「不思議、大好き。」(八一年)とともに“セゾンカルチャー”を決定づけ、時代の象徴とも評されたコピーです。
ウッディ・アレンを起用することにも堤さんは、身を乗り出すようにして興味津々でした。
この時、ぼくはこのコピーのコンセプトをこんなふうに説明しました。
「狙いは日本発見です」