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類を見ない残虐行為で、大分県警を震撼させた異常犯罪者・萩谷信。「悪魔」と呼ばれた男の人生に若き刑事が迫る

類を見ない残虐行為で、大分県警を震撼させた異常犯罪者・萩谷信。「悪魔」と呼ばれた男の人生に若き刑事が迫る

矢月 秀作

電子版39号

出典 : #別冊文藝春秋
ジャンル : #小説

「別冊文藝春秋 電子版39号」(文藝春秋 編)

第一章

1

「三浦君、別府の北浜で起きたひき逃げ事案の画像解析はどうなってる?」

「もう少しで、ナンバーを割りだせそうです」

「そうか。解析ができたら、すぐ別府署へ送ってくれ。逮捕状請求を急ぎたいそうだ」

 大分県警本部刑事部刑事企画課捜査支援室の室長、花岡譲が指示をする。

「わかりました」

 三浦賢太郎は、現在解析中の窃盗事案の作業を止め、ひき逃げ事案の画像解析を始めた。

 半年前、三浦は大分県警の刑事学校を卒業した。

 刑事学校とは、試験を受け、狭き門を突破した現職警察官がベテランからの指導を受け、捜査技術の向上を図るため、刑事企画課内に設置された部署だ。

 一九八三年四月、全国に先駆け大分県警に新設され、現在はほとんどの都道府県警察本部に置かれ、聞き込み、張り込み、現場観察、職務質問、取り調べといった基本技術から、科学捜査やハイテク機器を使った新型犯罪への対応技術まで、ありとあらゆる捜査術を徹底して学び、捜査のプロを養成する場として定着している。

 三浦は五名の仲間と共に研修生としてすべての課程を終え、卒業した後、県警本部の捜査支援室に配属されていた。

 捜査支援室の役割は、文字通り、防犯カメラや音声データの解析などで犯罪捜査の支援をすることはもとより、犯罪統計の分析や、あらゆる犯罪の手口や犯罪者の経歴などを整理し、情報管理システムに提供することも含まれる。

 三浦は日々、各署から依頼された個別事案のデータ解析や犯罪データの収集、分析、整理に勤しんでいた。

 ひき逃げ事案の画像解析は、少々難易度が高かった。

 ひき逃げの瞬間をとらえた映像が残されていたのだが、家庭用の防犯カメラの白黒画像で解像度が低かった。

 拡大すると、ナンバープレートの部分がぼやけ、さらにテールランプの明かりが反射し、全体が白んでいる。

 そういう時は、ナンバープレートの部分はあまり拡大せず、陰影でドットを結び、プレートに記された文字と数字を割り出す。その後、拡大してドットの陰影を再確認し、確定させる。

 昔はすべて分析官の目で行なっていたが、最近はAIである程度の候補を割り出し、そこから確認作業を始めるため、時間は大幅に短縮された。

 それでも、ケースバイケースで時間がかかってしまうことはある。

 三浦は先輩分析官のアドバイスをもらいながら、一人で解析に挑んでいた。

 ほぼ解析は終わったが、左のひらがなが判別できない。「あ」か「わ」だろうというアタリはついているが、どっちだと言い切れない。

 このひらがなを間違えるわけにはいかない。

「あ」は業務用登録車にあてがわれるもの。「わ」はレンタカー用のひらがなだ。

 業務用登録車であれば、その所有者、所有会社の関係者をあたればいい。

 レンタカーであれば、そのナンバーの車を借りた者を特定すれば、自ずと犯人に近づく。

 逆に、間違えれば、捜査を混乱させることにもなりかねない。

「どうするかなあ……」

 三浦はモニターを見つめ、唸った。

 と、ショートカットの女性が声をかけてきた。

「どうした、三浦君?」

 振り向く。

 永井明子だった。今年五十歳になる女性で、捜査支援室に十年以上勤務しているベテラン分析官だ。

 少々ふっくらした小柄の女性で、物腰柔らかい笑顔を常に絶やさない人だが、微妙なところを見極める眼力は、支援室でもピカイチのベテランだ。

「このひらがなが判別できないんですが」

 三浦はナンバープレートの左側を指さした。

 明子が覗き込む。

「うーん、これは難しいね。でも、よく見ると、特徴的なところが見えてるよ」

「どこですか?」

 三浦が訊くと、明子は横から手を伸ばしてマウスに手を置いた。画像を拡大していく。

 明子はひらがなの左側のドットを表示した。

「この縦棒に付いた、漢字のにすいのような点々があるでしょ?」

 明子が指でモニターを指す。

 三浦がうなずいた。

「この点々の間を拡大すると――」

 明子はさらに拡大した。

「どう? 開いてる、閉じてる?」

「ドット四つ分くらい開いてますね」

「そう、開いてる。では、これを見て」

 明子はナンバープレートの画像を出す。左のひらがなは「あ」と「わ」だ。

「あっ」

 三浦が目を見開いた。

「わかった?」

「わかりました。“あ”ですね。“わ”は縦棒に接する部分のにすいに隙間がない」

「そういうこと」

 明子はにっこりと微笑んだ。

「この場合、上の横棒でも判別できる。“あ”の横棒の入りは尖っているけど、“わ”の横棒の入りは少し角ばってる。ナンバープレートだけでなく、看板や文書などで汎用的に使われる文字には、必ず、見分けがつく特徴があるの。こういう解析しにくい画像の場合、まず、調べようとしている対象に使われている文字の特徴を把握して、その特徴に照らし合わせて判別していくのよ。頭に入れておくことはないの。その都度、対象の特徴を調べる癖をつけておけば、徐々に作業スピードも上がる。わかった?」

「はい。ありがとうございました」

 三浦は頭を下げた。

「私がここまでわかるようになるには、十年かかった。君は優秀だけど、それでも三年はかかる。焦らないで、一歩一歩着実にね。私たちの仕事で大切なことは、まず確実性。間違った情報を渡さないこと。スピードはその後だから」

「はい」

 三浦が首肯する。

「あ、それと、君が個人的に調べていることだけど」

 明子は三浦を見つめた。

「やっぱり、問題ありますか……」

 三浦は渋い表情を覗かせた。

 すると、明子は口角を上げた。

「気になるなら、最後まできっちりと調べなさい。きっと、君の力になる。ただし、通常業務に支障のない範囲でね」

「わかりました」

 三浦が笑みを返す。

「結果がまとまったら、教えてね」

 明子は言うと、自席へ戻っていった。

 三浦は小さく息をついて、解析結果のまとめを始めた


この続きは、「別冊文藝春秋」9月号に掲載されています。

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電子書籍
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文藝春秋・編

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