その後フリーランスになって十数年を経たあるとき、知り合いの編集者の誘いで行った飲み会で、初めて東海林先生にお目にかかった。
先生を知る何人かから事前に得た情報は、次のようなものだった。
一、東海林さだおは笑わない
二、東海林さだおは褒めない
三、東海林さだおは喜ばない
余計な情報を得てしまった僕は、初めて会う先生を前に極度の緊張状態に陥った。アタフタしながら挨拶をし、ヘドモドしながら名前の由来を伝えた。
すると先生はにっこり笑っておっしゃった。
「光栄です」
それどころか先生は、僕の肩を抱いて一緒に写真に収まってくださったのだ。
人の噂というものが、いかにいい加減なものであるかを学んだ夜だった。
さて、これで先生の著作の解説を書く資格が僕にも少しはあることをご納得いただけたかと思うので、解説に入ります。
東海林さだおのエッセイが人を惹き付けて離さない要因は多々あるが、僕がつねに感動するのは「目の付けどころ」と「的確な表現」だ。誰もが日常で経験していること、知っていることを取り上げていながら、誰も思いもつかないような視点から、これ以上ない言葉で表現する。
「神田川」というフォークソングは一定の年齢以上の日本人なら誰でも知っているが、その歌詞を取り上げ「自慢ソングだ」と言及したのは、後にも先にも東海林さだおだけだろう。
小さな石鹸カタカタ鳴った
という歌詞から、
「二人で暮らした年月」の長さを誇示して自慢している
と捉える洞察力(ひがみともいう)を持つ者が他にいるだろうか。いや、ない。
天ぷら屋さんが天ぷらを揚げる光景も、誰もが見て知っている。
しかし、海老にまとわりついたコロモが、そのまま人の口に入れば「コロモ」のままなのに、海老から剥落した瞬間「天かす」という蔑称が与えられ、哀れ落魄の身に転じる、という事実に気付いた者はまずいない。ましてその不幸を天かすの身になって世に訴えた人物は、地球上で東海林さだおただ一人なのだ。
それだけではない。天かすの不憫を正しく伝えるため、東海林先生は広辞苑から「滓」という言葉の解釈を引っ張ってくる。広辞苑という権威に「あとに残った不用物。また、劣等なもの。つまらないもの。屑」とまで言わせて、天かすへの同情を誘う。
神田川も天かすの一件も、誰もがそんなことを考えたこともなかったくせに、読むうちに「そうだよな……」と頷いてしまう。これすべて東海林さだおの指摘が正鵠を射ているからなのだ。
色々と書きたいことはあるが、自己紹介に紙幅を費やしてしまったので最後にもう一つだけ。
東海林先生の本は読んで面白いだけでなく、眺めて楽しむことができる。
よく武者小路実篤や相田みつをの色紙を額に入れて飾っている人がいるが、それらに勝るとも劣らない名画と名言が、先生の本には必ず何点か収められている。この本でいえば百八十一ページの「巾着」がそれだ。
会社で上と下から突き上げを食らいながらも、自分が緩衝材となることですべてを丸く収めている中間管理職のお父さんは、この絵を拡大コピーでもして額に入れて飾るといい。じっと眺めていると巾着のストレスに自分自身の労苦が重なり、清らかな涙が頬を伝うだろう。そして涙が乾くころには自然に笑みが浮かび、明日への活力がみなぎるはずだ。
それこそが東海林作品の最大の効能なのだ。副作用はありません。
最後にやっと医療ジャーナリストっぽいことが書けました。
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