ここで私は不思議に思う。逸子はどうして、こんなにひどい静徳と別れなかったのだろう。いろんな才能に恵まれていたのだから、どこに行ったって働けただろうし、なんなら静徳なんか置き去りにして、ひとりでダンスホールを探し歩けばよかったのに。静子を産んでもらわなきゃ私は困るが、けれど子どもを産んでしまったら、余計に離れづらくなるだろうし……と思ったところではたと気付いた。逸子は静徳と離れたくなかったから子を産んだのだ。静子は尊い愛の結晶ではなく、逸子から静徳に送る「あなたが幸せにするのは私なのよ」というメッセージだった。辿ってみれば、ダンスの先生になるという逸子の夢は、静徳が与えたものである。長崎行きも静徳について行った形だったし、今の職場だって静徳の紹介で勤めることになった。逸子が踊りたい場所は、いつだって静徳の腕の中なのだ。逸子が求めるものは単なる幸せではなく、静徳が与えてくれる幸せだったのである。しかしその夢は叶わない。かわいい子どもをふたり産んでも静徳は変わってくれず、むしろ彼の暴力性は増す一方で、家庭にお金を入れるどころか逸子の稼ぎを持ち去っていく。
あるときついに逸子は静徳からの仕打ちに耐えかねて、家を出て行くと静子に告げる。すると静子がレース編みを手に取って「こいの編み上がるまではおって‼」と必死な顔をしたので、逸子はおかしくなって家出を思いとどまった。しかし考えてみると、逸子がレースを編むのは、静徳に置いて行かれてひとり寂しい思いをしているときだ。静徳にそっくりな顔をした、無邪気で残酷な静子によって、逸子はまたレースを編まなければならなくなった。またひとりでじっと寂しさに耐えなければいけなくなったのだ。だからそのあと、ペチコートを着てレースがきれいとよろこぶ静子に、
「静子ちゃん、レース好いとっね~。まえ、あたしが出て行くてゆうたとき、こんレースの編み上がったら出て行ってよかてゆうたもんね~。あたしよりレースの方が好いとっとやけん」
と嫌味を吐いてしまったのかもしれない。自分の結婚生活が破綻していくにつれて、逸子は「あなたが幸せにするのは私なのよ」というメッセージだった静子の女性性が憎くなっていく。そして出会ったあらたな恋人・孝は、その嫌悪をもっと強める要因となるのだが、来たる静徳との別れの日、逸子はこんなことを思った。
静徳が「幸せんしてやってください」なんてまるで父親のようなこと言うから、座敷に這いつくばって頭を下げている父をふと思い出したりもした。もう静徳とダンスを一緒に踊る日は来ない。この人踊り、上手かったな、と関係ないことを考えた。
逸子が実家を出るときに見た、座敷に頭をこすりつけている父は、亡霊だった。それ以前もずっと同じように頭をこすりつけているばかりで、いつから死んでいたのか定かではない。逸子の夢もそうである。静徳とダンスの先生になるという夢は、もうとっくに死んでいた、と静徳との別れをもってはっきりと逸子は知ったのだ。隣で涙を流す静子はまるで、若かりし日の逸子が化けて出たかのよう。だけれどそれは、静徳に幸せを望んでいた頃の逸子である。今や逸子の幸せは孝へと託された、はずだったのだが、孝は静徳と同じように、いや静徳よりももっとしつこく逸子を殴り、逸子が客と踊るのを嫌い、ブタ呼ばわりまでするようになってしまう。しかもなんだか、娘の静子に妙な視線を向けているような気が、逸子はしている。そんないやな予感は、孝の「静子はオレが処女を奪ってから嫁に出ーす‼」という地獄のようなセリフによって確信に変わる。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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