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さて、各短篇の魅力について、私が改めて贅言をついやす必要はなかろうと思う。語るとすれば、この連作短篇集を読んで自分がいかに驚いたか、その驚嘆の一部を読者諸兄姉と分ちあいたいという思いがあるからだ。
「逃げる」に登場するのは、垓下の戦いで敗れた側の二人の男、項羽とその将軍の季布である。
項羽は自分が思っているよりもずっと孤独な人間で、初めて体験した敗戦が彼にもたらしたことは、自身をとことん追いつめていくしかないということだった。それが「逃げる」という行動で、悲惨な逃走の果てにくるのは自死しかない。項羽らしいすじの通し方ともいえるが、動乱の日々で敗れることがなかった軍人の悲惨が、くっきりとそこにあるだけ、ともいえる。
それに対し、同じく敗れた楚軍の将軍である季布は、違った逃げ方をした。季布は生きのびようとして、人に頼る。周氏に頼り、周氏はなんと季布を奴隷の身にして逃がそうと考え、それを実現すべく侠者の朱家にひき渡す。朱家は最後に劉邦の側近夏侯嬰に季布をゆだねる。
季布は、それを受け入れる。すなわち生きのびようとする。「季布の首をとれ」とかつて激昂した劉邦は、季布を許す。そしていう、「項王は垓下で死んでいたのだ。逃げたのは幻よ。人は必死に逃げれば助かるものだ」。その言葉を聞き、季布は「この人からは逃げようがない」と思う。
逃げるということの意味が、項羽と季布ではあざやかに異なる。そのことを劉邦が知っているのは、戦(いくさ)に勝ったり負けたりしてきた経験によるものだろう。ここでの劉邦はまことに大きな影なのである。
「長城のかげ」は、劉邦にくっついて生きた親友盧綰(ろわん)の生涯である。二人は同年同日生れで、父親同士が親友。となれば二人は親友になるほかはない。そう思ったのは、どちらかといえば劉邦ではなく盧綰のほうだったのであろう。
泗水亭長という小吏で、しかも侠客という劉邦は、竹皮冠をかぶって「王になりたい」とまでうそぶくようになるのだが、半ばホントかねと思いながら、盧綰はこの「親友」を受け入れるしかない。
親友が女と情交しながら盧綰を呼び、相談事をしたり命令を下したりする。こういう親友を、盧綰がほんとうに理解していたかどうか。劉邦は、大きくて近すぎるところにいた影のような存在ではなかったか。
盧綰は皇帝劉邦のはからいで燕王になる。燕はよく治められた。それが数年続いたあと、盧綰が匈奴に通じていると言上する者があり、劉邦は「盧綰、はたして反(そむ)けり」といい、猛将樊噲に燕を攻撃させた。盧綰が北へ北へと退くうち、劉邦は病気で死ぬ。それを聞いた盧綰は哭(な)きくずれたが、長城を越えて北の匈奴の地に入り、一年あまりのちに死んだ。こういう人間関係のドラマを、読者としては黙って聞くしかない。
『長城のかげ』の最後に置かれた「満天の星」は、同じく短篇でありながら、長篇を読んだような印象がある。主人公の叔孫通(しゅくそんとう)が権力の変移はげしい戦乱の時代のなかで、つねに主流にいる有力者のそばに生きつづけた、そのしたたかな生き方が描かれているせいかもしれない。
叔孫通は薛(せつ)県出身の名の知られた儒者で、戦乱の世の有力者の力関係を見抜く目をもち、自身も思い切った行動をとる胆力がある。弟子も多い。
そういうしたたかな学者だから、秦の始皇帝、二世皇帝(胡亥)、項梁、義帝、項羽、そして劉邦と、つねに天下の主権者の近くに身を置いて生きた。儒者としてやらなければと思いつづけたのは、「礼」を政治のなかに置きたい、ということであった。
あの儒教嫌いの劉邦の漢王朝で、朝儀を起こし、礼を政治のなかに取り入れることに成功したのである。それだけに叔孫通の生き方のしたたかさがどういうものであるかが十分に描かれていて、興趣つきない小説なのだが、私が驚嘆したのは、叔孫通の時代と人を見る眼力のきびしさである。
たとえば、竹皮冠を頭にのせた男について、叔孫通はたまたま側にいた武将にあれは誰かと聴く。その武将は項羽であり、項羽は竹皮冠の男を「たよりにならない男」と頭からけなす。それを聴いて、叔孫通は「良将は高言を吐かないものだが」と、項羽について疑問をいだくのだ。
さらには叔孫通は義帝に一種の親愛感を抱いていたが、その義帝を「追放する」という項羽を心中強く批判する。そして、「わしは項王には仕えぬ」と高弟に向って呟くのである。そこには、項羽の意味のない冷酷さへの反発と、いっぽう竹皮冠の男劉邦への親近感がある。そしてその劉邦の漢王朝で、長年の願いだった朝儀を起こすことができた。
そこまでくれば、劉邦という男が影であることから脱し、やがて小説の中心になることが予感されているようだ、と私は思った。小説家の想像力はじつに不思議な働きかたをして、小説を生みだしてゆく。それが名品である秘密は、その想像力の働きのなかにある、と思うしかないのである。
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