中国の初期古代王朝、それも主として紀元前の古代王朝の治乱興亡の歴史を背景に、さまざまな人間ドラマを難解な漢字を自在に駆使した格調ある悠々たる文体で綴り出してきた宮城谷昌光の独特の中国ものは、豊富な史料渉猟に立脚した骨格の確かさに加えて、史料の空白部分を埋めていくロマンと人間観察のありように大きな魅力がある。
その想像力と創造力、そして構成力は、デビュー当初から定評を受けていたのだが、作者自身は史料と史料の間を単なる空想や想像力、思い付きで埋めることを自ら禁じていると言う。現代人の合理性で埋めていくことで原史料との違和感が出るからで、中国の史料がない場合はヨーロッパの古代の史料を参考にするなどして、古代人の考えの筋道を見ていくのだ、と語ってもいた。権力をめぐるいくつもの抗争や戦争を通して、為政者としての支配の在り方を問い、歴史の中で繰り返し起こる人間の錯誤と葛藤のさまをとらえていく。人間が生きるという問題をその精神の内側から照射していく点に、独特の持ち味となっている濃密な風合いを感じさせ、中国ものの第一人者として一作ごとに懐の深さを示してきた。
その中国ものの功績で、宮城谷昌光は二〇〇〇年に司馬遼太郎賞を受賞したのだが、司馬遼太郎は「なんらかの情熱を持った男」に“漢”という字をあてていたことが思い起こされる。宮城谷作品の主人公や登場人物たちと接するたびに、この“漢”という字が脳裏に浮かび上がってくる。理性と気概を有した男たちを数多く描き出しているからだ。
本書『華栄の丘』の主人公・華元にも、この“漢”という字があてはまる。中国の春秋時代、楚や晋といった強国にさいなまれる小国・宋の名宰相であり続けた男である。
ところで、中国の春秋時代とはいつからいつまでの時代を指すのか。宮城谷昌光は『春秋名臣列伝』(文藝春秋・二〇〇五年十一月刊)の「序」で、「妥当であるとおもわれることをさきにいえば、それは紀元前七七〇年から紀元前四七六年までである」と指摘している。そのあと、紀元前二二一年までが戦国時代ということになり、この春秋戦国時代は東周王朝期でもある。
また、『窓辺の風 宮城谷昌光 文学と半生』(中央公論新社・二〇一五年十月刊)の「第二章 おまけの記」(書き下ろし)に収録されている「22 孟嘗君と酷暑」には次のように記されている。
「辞書などに付けられている年表をみると、紀元前七七〇年から春秋時代となり、紀元前四〇三年から戦国時代となっている。ちなみに広辞苑もその紀元前四〇三年からを戦国時代としている。
ところが中国で発行されている年表をみると、春秋時代は紀元前七七〇年から前四七六年までで、戦国時代は紀元前四七五年から前二二一年までである。
そもそも春秋という名称は、魯の国で生まれた孔子が自国の年表記をもとに、私的に作った年表のことである。その年表は紀元前七二二年からはじまり、前四七九年(孔子が死去した年)で終わっているので、厳正にいえば、それが春秋時代である」
「私個人としては、ほんとうの春秋時代の終わりに近いところから戦国時代がはじまるべきだと考えたので、紀元前四七五年説を採用している。その年は、周の元王元年にあたるので、区切りとしてはちょうどよい」