さらに言えば、三部からなる構成も心憎い。第一部では姉妹は十五歳と十三歳で、長崎屋の人々も平穏な日々を送っている。特記すべきは、鎖国の江戸時代ながら、〈オランダ宿〉の娘たちは、「幼い時からカピタンが訪れることに親し」み、「髪の色が違っても肌の色が違っても、わだかまりなく話してきた」ことだ。そんな大らかな娘たちの明るい日常にふっと不吉な翳が射す。南蛮渡来の妙薬、猿をつれた謎の武士、回船問屋の番頭の横死……。正体不明の恐ろしげななにかが、姉妹の足元へひたひたと迫ってくる。その予感に、読者である私たちは息を呑む。とはいえそれはまだ遠く、長崎屋にも娘たちにも直接の影響は及ぼさない。
ところが第二部に入ると一変。長崎でカピタンの血を引く青年、丈吉が変死したことからはじまって、第一部の四年後、四年に一度のカピタンの参府でシーボルトが長崎屋へあらわれるころから、るんと美鶴も否応なく謎めいた事件に巻きこまれてゆく。
番頭を殺したのはだれか。
丈吉はなぜ死んだのか。
ふたつの死にかかわりはあるのか。
妙薬をめぐる密貿易の謎を追いかける一方で、シーボルト事件の予兆が次第にあらわになってゆく。
この第二部では、るんと美鶴も十九歳と十七歳になっている。姉妹の想い人が各々ふたつの事件にかかわる青年であることも、事件が絡み合い、影響し合って混沌としてゆく要因である。深まる謎にも恋の行方にも、読者は目がはなせなくなる。
そしていよいよ第三部。文政十一年八月にはシーボルト事件が発覚し、長崎と江戸で次々に関係者の詮議や投獄がつづく中、翌十二年三月に江戸で大火が……。
これ以上は書けないが、いくつもの伏線がひとつになって真相が明らかになる終幕の大団円まで、手に汗を握る展開がつづく。
火事は江戸の華――火事なくして江戸は語れない。本書のクライマックスともなる文政十二年の大火は江戸三大大火に次ぐもので、焼失した家屋敷は数知れず、焼死者はおよそ二千八百とも記録されている。本書では、これだけでなく随所に火事の話が挿入され、火事そのものが重要な役割を果たしている。とりわけ、実家の火事で家族を失い、たった一人生き残った女――のちの妙心尼――は最後まで謎めいていて正体がつかめない。間宮林蔵の、強烈な印象を残す脇役ぶりと対をなすようで、どこか神がかっているようにすら思える。
葉室さんはなぜ、火事の化身ともいうべき女を登場させたのか。妙心尼に語らせたかったことはなんだろう。
妙心尼にはこんな台詞がある。
「この世の災いは娘の恋がもたらすんだよ。恋が本物なら災いも本物になる」
これはどういうことか。一途に思いつめることは、胸の奥に焔を燃やすことだ。その焔が純粋であればあるほど、燃え上がったが最後、すべてを焼き尽くしてしまう。
真実を暴くことも、同じではないか。暴こうとすれば燃え尽きるしかない。だからじっと耐え、非情な手で摘み取られてゆくのを待つ。名も無き人々の義憤を、葉室さんは娘の恋の焔になぞらえたのではないか。
もしそうなら、日本から追放されたシーボルトの一滴の涙が螺鈿細工の絵の上に落ちて、絵の中の幼い娘、イネの瞳が青く輝くラストは、本書中に登場する雪の結晶のごとく儚く美しい。長崎屋が再建され、やがて日本が世界に開かれてゆくように、葉室さんがるんと美鶴の姉妹に託したものは、義憤を超えてなお、凜々しく逞しく生きぬく人々を照らす一条の、希望の光であるような気がする。
私の僭越な解説に、葉室さんは微笑んで下さるだろうか。
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