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平松さんの傑作レシピの味

平松さんの傑作レシピの味

文:石戸 諭 (ノンフィクションライター)

『いわしバターを自分で』(平松 洋子 著、画・下田昌克)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #随筆・エッセイ

 迫り来る不安に押しつぶされそうになりながら、それでも平松さんはあくまで足元から思考を始めていき、日常の中にあるポジティブな要素も見つけにいく。ふきのとうと帆立の貝柱を味噌で味をつけて春巻に仕立て、揚げたてをビールと一緒に流し込んでひとときの満足を得る。全国一斉休校で消費が落ち込んだ牛乳を煮詰めて「蘇」を作る。オイルサーディンからいわしを取り出して、潰しながらバターと混ぜ、冷蔵庫へ。表題作の「いわしバター」を作って、バゲットに塗り込む。平松さんのように白ワインもよし、ピート香の効いたハイボールにも合う完璧なつまみである。以前にも増して、手を動かすことによってしか生まれない小さな楽しみ、生活感覚の描写が実に絶妙なのだ。

 危機の時代にあって、書き手はより大所高所から何かを語ったり、過剰なまでに情緒に流された文章を書いたりしがちだが、平松さんの文章にはそれがない。彼女は頭を動かすだけでなく、料理という極めて具体的なものを作り、食べる喜びを知っているからだろう。もちろん、彼女もまた政治の動きに対してちくりと不満を吐露してはいるのだが、確実に知っている自分の生活感覚の延長でしか語らない。手触りを感じているものからしか書かない。軽妙に日常を描きながらもきっちり引いてある一線の先に、彼女が声高に叫ばない美意識が見えてくる。

 

  2

 平松さんが世に送り出した傑作レシピのひとつに、本書に登場し――これも傑作料理漫画である――『クッキングパパ』でも取り上げられたパセリカレーがある。本来、料理の脇役とも呼べない、せいぜい彩り担当でしかなかったパセリをこれでもかと鍋の中に放り込み、主役へと格上げした一品だ。僕もレシピ通りに作って食べてみたが、これほど平松さんの美意識を感じさせるカレーは無いと思った。なぜか。一見すると地味で、何気ない存在だが、ちょっと手を加えるだけで肉の旨みにも、カレー粉の香りにもまったく負けない存在感と味を放つ。生活の中で、何気なく見過ごしている瞬間の中にある光を感じさせるエッセイと共通する味を感じてしまったからだ。

 おもえば平松さんは味について、こんなことを書いている。

「味というものは、けっして自分の手から離してはいけない。離したその瞬間、指のあいだから砂のようにこぼれてまぼろしと消えてしまうから」(『サンドウィッチは銀座で』より)

「不要不急」の掛け声が大きくなった新型コロナ禍で、じつに多くの店の味が消えてしまった。一度、失われてしまった味はもう二度と戻ることはない。味とは単なるレシピの再現ではなく、店に刻まれた歴史や足を運ぶお客も一体となって醸し出す雰囲気とあいまって出来上がるものだからだ。一つの味を守ろうとする人々の努力は、これまでの何倍も必要になった。

 そして、こうも思う。生活のなかで生まれてきた味はどうだろうか。さきに平松さんは食べる喜びを知っている、と書いた。誰でもそんなものは知っているという声もあるだろう。だが、本当にその喜びを手離さず、大切なものだと思ってきただろうか。僕はあるとき、感染症の流行に右往左往する社会の動きのほうに流され、食事の楽しみよりも不安や怒りを感じるほうが先にきている自分に気がついた。目の前の喜びを実にあっさりと捨てていた。それは自分の生活を捨てることと同義なのだ。

 

  3

 どんな人間であっても、時代から逃れて生きていくことはできない。時代が暗がりに覆われているとき、残された光は自分で感知しようと思わなければ感知できないほど小さく、そして淡いものなのかもしれない。平松さんはエッセイを紡ぐなかで、生活に暗い影を落とす感染症の流行と同時に、それでも生き抜いていくために必要な光を必死に描き出そうとしている。

 しなやかなものは、柔らかく、決して折れることはない。時代の空気で曲がっていくことはあっても、潰されずに押し返す力を持っている。生活は、案外と強いものだ。本書を読み終えて、あらためて思う。僕もしなやかな感性を養っておきたい、と。

文春文庫
いわしバターを自分で
平松洋子 下田昌克

定価:737円(税込)発売日:2022年03月08日

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