『潮待ちの宿』は、瀬戸内海の港町・笠岡(現・岡山県笠岡市)に生きる庶民の姿を描いた、安政六年(一八五九年)から、明治十三年(一八八〇年)にわたる物語である。旅宿「真なべ屋」で働く志鶴と、彼女を見守る女将の伊都、笠岡の町年寄の佐吉を中心に、さまざまな立場、境遇の人々が登場する六つの人情話で構成された、連作短編集の形式がとられている。どのエピソードも、当時の庶民の生活と感情がいきいきと描き出された名編であるが、それにとどまらず、江戸期から明治期への転換にあたる時代が舞台となっていることにより、失われゆくものへの哀惜や、新たに生まれるものへの希望が、いろいろな形で物語に反映されている。
本編より先に、書店の店頭でこの解説をお読みになっている方には、まず、最初のエピソードである「触書の男」をためし読みしていただくことをお勧めする。私はこれを、最初に発表された「オール讀物」誌の二〇一六年十二月号で読んだのだが、意表をつくストーリー展開の面白さもさることながら、何よりも、志鶴のけなげさ、ひたむきさ、聡明さに、たちまち引き込まれ、すっかり感情移入してしまった。
志鶴の美点はそれだけではない。幼いころに生家から離されて、真なべ屋の伊都のところにやってきた、弱冠十四歳の彼女だが、真なべ屋で働くことに、しっかりと誇りや責任をもっているのである。そこに、凜とした美しさを感じた。
そんな志鶴を温かくも時には厳しく、母のように見守るのが、真なべ屋の美しい女将・伊都。商売人の男たちが行き交う港町の宿屋を、そつなく切り盛りする才女だが、実は、誰にも語ることができない過去をもっているようだ。伊都を想っているらしい町年寄の佐吉も、それを知ってか知らずか、伊都とは一定の距離をもって接している。伊都の過去に何があったのかも、物語の気になるポイントだ。
「触書の男」をお読みいただいた方は、本書を書店のレジにそのままお持ちになると確信するので、この解説の役割もここまでということになるのだが、せっかくなので、その先のエピソードも、物語の興趣を損なわない範囲で、紹介していく。
「追跡者」……幕末の著名人である河井継之助が登場し、「触書の男」とはまったく違うトーンで物語が展開する。新時代への夢を熱く語る河井に、ひけをとらないほどの志鶴の聡明さが印象的。
「石切りの島」……「触書の男」に名前のみ登場する佐吉の弟・弥五郎をめぐる、活劇要素の強いエピソード。絶体絶命のピンチに陥った志鶴が、どう危地を脱するかが読みどころ。
-
『赤毛のアン論』松本侑子・著
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募期間 2024/11/20~2024/11/28 賞品 『赤毛のアン論』松本侑子・著 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。