ひかると日菜子、ひかると達郎、元塾講師住田真知子とかつての生徒である石上哲也……過去の禍根がお互いを引き合わせるように。
人と人のつながりは、よいものばかりではない。ひかると母の関係は特にそう思わせる。それでも親子である以上、ある年月は離れられずに重圧に耐えるしかない。その重圧は疑似的人生を歩く読み手にも襲い掛かる。
達郎もまた家族の問題を抱えている。本人には責任のないものだけど、逃れられない。
ひかると達郎の間にあるのは、恋でも友情でもなく、もっと切実に互いを救いあう同志的な情だろう。周囲からはわからない。わかるのは本人たちだけ。
同様に「ソラさん」も人々のよき夢であり、救いでもあるが、救われたい人々が生み出した幻、あるいは誰かを救うために「ソラさん」になろうとした誰かの願いかもしれない。
先ほど「ソラさん」をキーパーソンとしてあげたが、もうひとつ重要なキーワードは「からくり箱」。
ひかるの亡き父が娘に托したからくり箱。箱があれば開けたくなる。なかなか開かないからくり箱ならなおさら。やっと開いたその箱の中身は空っぽで、ずっと以前、すでに誰かに開けられていた可能性がある。
無粋を承知で言えば「からくり箱」とは一種の比喩で、それは人の「記憶」のような気がする。自分の記憶は自分のものであるはずなのに、ふと忘れてしまったり、いつしか思い出せなくなっている。
人間は忘れてしまう生き物だ。すべてをくっきりと覚えていたら、生きていけない。だから何か別のものに記憶を残す。それが「からくり箱」ではないだろうか。
勝手な推測はさておき、登場人物たちには一様に複雑な事情があり、一筋縄ではいかないトラウマを抱えている。見えない諦めの表情を浮かべてもいるが、どこか一縷の望みを持ち続けてもいる。
ひかるは身勝手な母と向き合い、達郎もブラック企業から離れようとする。日菜子はもう一度息子との関係をやり直そうと試みる。
また間違うかもしれない。でも人は信じた方へ進まずにいられない、そんな根幹的な強さを感じる。
小説を読むのは単に娯楽でもあるが、日常からの逃避のような役割もある。本書に詰まった苦しさや辛さは、現実よりも厳しく感じるかもしれない。ではなぜそんな辛い疑似的人生を歩むのか、と聞かれたら「自分のことがわかるから」とわたしは答える。
不幸にも不安にもならずに、間違わずに生きようとしても無理なのだから、間違えた時にもう一度やりなおせるかが大事だ。どんな時でも人生に希望を持てるか。
「ソラさん」を信じられるか。
真夜中に青空は見えなくても、夜はやがて明ける。空が晴れる日は来る。
明日を信じる力をもらえる小説だ。
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