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魂を削って生まれた静謐で気骨ある一冊

魂を削って生まれた静謐で気骨ある一冊

文:本郷 和人 (東京大学史料編纂所教授)

『将軍の子』(佐藤 巖太郎)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #歴史・時代小説

 だがこれはどうか。「戦国武将たちは、もっと能動的で動物的な血の臭気に包まれていてほしい。」この意見の基本にある認識は、歴史研究者の視点に立つと積極的な「誤り」である可能性がある。人は古代から現代にいたるまでずっと戦い続けてきた。犠牲者の数で比べたら、近代の総力戦は戦国時代を圧倒している。戦国武将がことに能動的で、動物的で、血なまぐさいかどうかは、自明の前提にならない。そうした想定の枠組みは、歴史小説の可能性を閉ざす方向に働きはしまいか。

 あるいはいう。「福島県の外にいる人々にとって、それら(本郷の注:作品に登場する人物)の名は伊達政宗をのぞいてすべて無名にひとしい。そういう深刻な認識から作者は小説をたちあげていったか、と問いたい。」つまりは作中において、登場人物の説明をより丁寧にすべき、ということだろう。これは大先輩からのたいへんに有益なアドバイスと受け取れる。

 しかし同じく有名か無名かという点については、「登場人物が多いうえに、あまり有名な人がいない。」という驚くほど率直な感想の表明もあった。有名な人物とその周辺しか取り上げないとなると、歴史小説の守備範囲は極端に狭められはしまいか。私は大学で講義しているときに、小野妹子が「子」とあるので女性、とするのはともかくとして、彼を隋に派遣した聖徳太子も「子」だから女性、と思い込んでいる学生に出会って愕然としたことがある。太子が一万円札の顔だった昭和は、確かに遠くなったのだなあ……。そんな「いま」だからこそ、歴史小説は読者に対し、新たな認知の地平を広げる効果的なツールたり得る。その意味で作者は、無名の人物を生き生きと造形する、得がたい語り部となっているように私は感じるが、違うだろうか。

 

 ひるがえって、さて本書である。私は前作にもまして、文句なくすばらしい作品と受け止めている。保科正之という一人の人間の成長の軌跡を、静謐で気骨ある文章が、様々な視点からみごとに描きだしているからだ。

 正之は歴史学では、「武」が重んじられていた時代が「文治」へと劇的に転換するただ中に位置した、きわめて有能な政治家として評価されている。末期養子の禁を緩めて「お家取り潰し」の数を劇的に減らし、浪人の発生を抑えて社会不安を鎮めた。殉死を禁じて、武士たちに「生きよ」と呼びかけた。明暦の大火にあっては困窮する町人を救い、江戸の町を根本から作り直した。

 大きな仕事を次々と成し遂げた彼は、いかなる環境を生き抜いて才能を磨き、人格を陶冶していったのか。本書はそれを静かに、しかし雄弁に物語る。

 解説の大役を一も二もなく引き受けたのは、作者の大ファンだからこそ、であった。だが、さて何を書こうかと改めてページをめくってみると、魂を削って生まれたような本書を語るに私の力量はあまりにも貧しい。

 解説するなどはおこがましい。そうではなく、何か役に立てることはないか。方向性を変えて、ない知恵を絞ったところ、一つだけ思い当たった。そうか、有名な人が出てこないなどと言われぬために、登場人物の簡潔な注釈をさせていただこう。もちろん、作品は作品として完結するものであるから、そんな作業はいかにもムダであり、蛇足に過ぎない。だが、作者にエールを送りたいと切望する私ができることといえば、悲しいことにこれくらいしかあるまい。それが、貧しい思考力、乏しい想像力しか持ち合わせぬ私が漸くひねり出した答えであった。

 本書をひもとくことは、諸兄姉の深みある読書体験となろう。これは疑いようのないことだと思う。私の蛇足が、そのささやかな一助になることを願い、解説に代えさせていただく。

 最後になるが佐藤先生のますますの活躍を祈念する。どうかくれぐれもご自愛され、珠玉のような作品を、私たちに届けて下さいますように。

文春文庫
将軍の子
佐藤巖太郎

定価:748円(税込)発売日:2022年06月07日

電子書籍
将軍の子
佐藤巖太郎

発売日:2022年06月07日

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