- 2022.06.16
- 書評
紀伊宮原、紀伊田辺、紀伊勝浦……なぜ紀勢本線の駅は“紀伊”だらけなのか
文:小牟田 哲彦 (作家)
『紀勢本線殺人事件』(西村 京太郎)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
国鉄の分割・民営化で紀勢本線の西半部が激変
昭和62年に国鉄が分割・民営化されると、紀勢本線は新宮を境に東側がJR東海、西側がJR西日本へ編入され、同じ路線でありながら所属会社が分かれることになった。本作品が初めて刊行されたのは平成3年秋だから、本作品は、JR発足から約四年後の紀勢本線、特に新宮以西のJR西日本所属路線の模様を描いていることになる。
もともと同線は、国鉄時代に新宮以西だけが電化されていたため、路線の雰囲気は新宮を境に異なっていたが、会社が分属したJR化以降、その傾向は急速に強まっていく。
紀勢本線は三重県の亀山から紀伊半島を半周して和歌山市までの路線であり、亀山発が下り(往路)、和歌山市発が上り(復路)となる。だが、JR西日本は平成元年7月のダイヤ改正から、自社が所管する和歌山~新宮間でのみ上りと下りを事実上逆転させ、本社がある関西圏から新宮方面へ南下する列車を往路、つまり下り列車として扱うようになった。
JRでは同じ列車名に号数を付す場合は、下りは奇数、上りは偶数とするルールがある。本作品では新大阪や天王寺から白浜、串本方面へ向かう特急列車が「スーパーくろしお31号」「くろしお25号」と奇数の号数を名乗り、逆に串本から白浜へ向かう特急が「スーパーくろしお8号」と偶数番号になっている。本作品の三年前まではこの奇数と偶数の付番ルールが真逆だったのであり、刊行当時は、国鉄時代から紀勢本線の特急列車を知る者にとっては違和感が残っていたかもしれない。
「スーパーくろしお」という特急自体も、その平成元年7月のダイヤ改正で登場した、当時の紀勢本線の最新鋭看板列車だった。本作品でも「先頭の1号車がグリーンで、前面のガラスが大きな展望車になっている新型車両」と紹介されている通り、新宮側の先頭車に連結された前面展望可能なパノラマ車両が目玉の観光特急で、当時の時刻表にも「グリーン車はパノラマ車」という注記がわざわざ付けられている。
十津川警部と亀井刑事が新大阪で新幹線から「スーパーくろしお31号」に乗り換える場面も、このダイヤ改正以前には見られなかった光景である。令和4年3月時点の特急「くろしお」は全列車が新大阪または京都発着となっているが、かつて紀勢本線の特急列車は全て、大阪環状線の天王寺駅を起終点としていた。そのため、新幹線から「くろしお」に乗り継ぐ旅行者は、新大阪から東海道本線の普通列車に一駅だけ乗って隣の大阪へ行き、さらに大阪環状線に乗り換えて天王寺まで行くという二回の乗換えが必須であった。
しかも、新幹線から在来線の特急列車に直接乗り換える場合は在来線の特急料金が半額になるという乗継ぎ割引制度は、新大阪と天王寺が別の駅であるという理由で適用されなかった。「くろしお」が新大阪まで足を延ばすようになったことで、紀勢本線への旅行者は初めて新幹線との乗継ぎ割引の恩恵を受けられるようになったのだ。
このように、平成初期の紀勢本線西半部は、国鉄時代とは劇的に様相が変わった時期に当たる。こうした状況に当時の西村京太郎は、紀勢本線を舞台とする作品の創作意欲を掻き立てられたのではないだろうか。
本文に垣間見られる現地取材の成果
詳しくは本作品第八章「紀南の海」に譲るが、ほぼ同じ地域を示す地名であっても、対外的に知られている地名と、古くからあって地元で定着している地名との間に齟齬があるケースは全国で見られる。特に近年は、市町村合併によって大雑把な広域都市名が誕生したものの、それぞれの地元では伝統ある旧名の方が通りが良いことが多い。
そうした事情は、実際に現地を訪ね歩かないとわからない。西村作品が著者自身による周到な現地取材に基づいていることはよく知られている。第八章の題名に用いられている紀南も、市販の鉄道時刻表を眺めているだけでは決して知り得ない。著者が現地取材中の見聞を通して気づいたに違いない。
もちろん、現代ではインターネットで検索すれば大概のことはわかる。だが、最初の気づきがなければ検索による調査はできない。本作品を通読すると、どんなに情報通信手段が発達しても、実際に現地を訪ねるフィールドワークの重要性を改めて感じる。そして、その取材成果を織り込んだ謎解きが、初版から三十年を経た今なお十分に作品を成立させていることには、敬服の念を抱くほかない。
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