伸也は高校を卒業してから髪を伸ばし始め、今ではその黒髪は肩に掛かるほどだ。おまけに口髭と顎鬚も生やし始め、当人は敬愛するジョン・ボーナムのつもりだが、伸也はいかにもなアジア人顔なので、どちらかと言えば髭を生やした松田優作だった。家業の塗装工をしているので、ツナギを着たままスタジオへ来ることもある。そのツナギが、赤や黄色のペンキで汚れていることもある。
そしてバンドリーダーでもある啓介。見かけは短髪金髪のやんちゃ坊主だが、妙に気が利くところがあり、リハスタ予約もライブのブッキングも彼が担当している。葵は自分がリーダーの器でない自覚はあったし、何よりバンドの運営や営業に興味はない。智樹と伸也も同じだ。結果として、四人の中でリーダー役を担えるのは啓介しかいなかった。
啓介の子供の頃の夢はプロ野球選手だった。町内の少年野球クラブでは二番ショートを務めそれなりに活躍したらしいが、中学の野球部でレギュラーになれず嫌気がさして退部し、高校へ上がるとベースを始めた。その後、私大の経済学部に進学はしたが一年余りで中退した。――ロックミュージシャンになるってのに“計量経済学”やら“国際金融概論”やらの講義を聞いたって、意味なんてないだろ。
三人はE社との契約を熱望していた。メジャーと契約できれば、これからはもっといい店でミーティングできるぜ、伸也が冗談めかして言う。この間は挨拶のみでさ、実際に契約するかどうかは社内で検討するってさ、そう言って葵はお茶を濁す。智樹はうんうんと頷きつつ、隣で二杯目のメロンソーダを飲んでいる。啓介は運ばれてきたピザをさっそくほおばりつつ、
「伸也の家のプレハブ小屋で、めちゃくちゃな音を鳴らしてたときからさ、ずっとプロのミュージシャンになりたかったよ。あれから五年かかったけど、ようやくチャンスが掴めそうなところまできたんだな」
それを聞き、ふいにあのプレハブ小屋を思い出す。伸也の家の庭にある、モトキスタジオと名づけた八帖のプレハブ小屋。高校時代は、あのプレハブに楽器を持ち寄って、皆で練習をした。いつか啓介が録音機材を持ってきて、自分たちの演奏を収録した。演奏中は天才の気分だったが、録音したものを聴くとあまりの酷さに皆が閉口した。それでも何百回と録音を繰り返すうちに、演奏は次第に聞けたものになった。
十八歳で初めて大宮でライブをしたとき、チケットは二十枚売れた。地元の友人たちが足を運んでくれたのだ。次の新宿ライブのチケットの売上は0枚だった。対バン相手が目当ての数人の客の前で、しがない演奏をした。ライブ後に制服姿の女子高生が、CDを買いたいと声をかけてきた。CDは作っていなかった。皆のバイト代をかき集めて、自主制作盤CDのレコーディングをした。
CDの手売りと委託販売を始めると、チケットは少しずつ売れるようになった。十枚売れるまでに半年かかり、二十枚売れるまでに一年かかった。継続的に二十枚捌(は)けるバンドはそうそうないし、何より楽曲が素晴らしいし、きっかけがあれば一気に売れる可能性はあると思うよ、まずはうちでスリーマンやってみたらどうだい、宣伝にもなると思うよ、エルの店長に勧められた。スリーマンは大赤字だったが、その後のツーマンは五千円の利益が出た。いつだってこの四人で小さな成長を積み重ねて、ようやく先日のワンマンまで辿り着いたのだ。
智樹と啓介と伸也とファミレスの駐車場で別れ、夜の街路を自宅へと自転車で走るうちに、もう中田や堺から心が離れていた。ベーシストを用意するというならバンドとして評価されたわけじゃない、この四人でないと出せない音もあるはずだ。それに他社からオファーがくる可能性がゼロになるわけじゃない、四人で小さな成長を積み重ねていけば、いずれはあの八角形の会場にだって辿り着けるんじゃないだろうか。
葵はコンビニの駐車場に自転車を停め、中田に電話をした。決意が鈍らないうちに結論を出したかった。レコード会社の社員は多忙だろうと思ったが、電話はすぐに繋がった。葵は中田に、今回の契約は見送る旨を伝えた。電波が悪いのか、受話器の向こうには妙な沈黙が続いた。
「それはどのような理由で?」
「啓介をクビにしてまで、契約したいと思いません」
受話器の向こうには、再び沈黙が続いた。やはり電波が悪いのかと思い、一度電話を切ろうとした頃になって、
「君の考えはよく分かった。社として、というか私個人として、ちょっとした提案ができるので、すまないがもう一度だけ社に足を運んでもらえないかね」
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