坪内祐三が『靖国』のプロローグ冒頭で強調した二つの年、一九九五年とその「六年前[一九八九年]」について、『靖国』を執筆中だった坪内祐三による何よりの解説であろう。「原辰徳の口にした「聖域」」は、『靖国』を読み解く上で、いくつものヒントが隠されている原稿だといえる。この原稿は「同い年」原辰徳の現役引退スピーチに強く触発されて書かれた。「我が読売巨人軍は永久に不滅です」とスピーチした長嶋茂雄と比較して、原の「含蓄のある」「内容のある」スピーチに強い印象を受ける。
「巨人軍は、巨人軍独特の何人も侵すことができない聖域があります。私はこの十五年間、それを肌で感じ、守って参りました」
朝日新聞の「天声人語」などはさっそく原辰徳のスピーチをからかったようだが、坪内はひどく反撥する。
「「侵すことができない聖域」というと少し仰々しく感じるなら、「日常の中の聖なるもの」と言葉を置き換えてみたらどうだろう。私たちは、この十五年間に、その「聖なるもの」を一つ一つ失っていった。その原因は、「聖なるもの」イコール非合理とする、メディアのからかい半分の視線にもあった。
その価値平等主義と、すべてにおいて利益に至上価値を置く経済合理主義が合体して、一九八〇年代は、「侵すことができない」はずの「聖域」が次々と侵されて行った。そして時代はノッペリとした日常が続き、(私を含めて)ノッペリとした顔つきの二十代、三十代、さらには四十代の人間が、巷にあふれるようになった。(略)原辰徳は、十五年の巨人軍での野球生活の間に、「侵すことのできない聖域」の存在を知り、それを肌で感じ、守り抜くことによって、「ノッペリ」した顔のまま、見事な成熟を遂げていたのである。
私は自分が原辰徳と同い年であることを今はじめて嬉しく誇りに思う」
靖国神社の招魂斎庭がアスファルト舗装された駐車場に変わったのは昭和六十年、つまり一九八〇年代半ばの一九八五年だった。「侵すことができない」はずの「聖域」は、経済合理主義にその場を譲った。この場合は譲ったというより、負けたというべきかもしれない。
案内板の日付がクリスマスの十二月二十五日となっているのは、神社側の何ものかへの無言の抗議のようにも思える。それはともかく、「原辰徳の口にした「聖域」」を読むと、この時点で、『靖国』執筆のヒントも、方法も、主題もクリアになっていたように思え、いつでも完成できたのではないか。それでも『靖国』完成を急いでいる様子はない。『ストリートワイズ』に収録された文章の多くは、文藝春秋のオピニオン誌「諸君!」、朝日新聞社のオピニオン誌「Ronza(論座)」、それから「思想の科学」にこの時期に発表されている。坪内はインタビュー「歴史の物差しのひとつとして」で、「昔[自分がデビューした頃]は[原稿用紙]二十枚から三十枚の評論を発表する場」があったが、「今の能力ある若い人たちはそういう形で世に出られない。若い人が世に出るには、新書などで書き下ろすしかないけど、一つのテーマ性を持った文章を二百五十枚書くのは、いきなりだと難しい。そういう意味でも、当時はまだ幸せな時代でした」と述懐している。筋トレのように日々の原稿を書きながら、力を蓄えていたのだ。公開読書日記『三茶日記』(本の雑誌社)の一九九八年八月十日から『靖国』執筆のラストスパートが記録される。
「先週末で締め切り仕事をすべてクリアーし、「お盆休み進行」だから今日からおよそ二週間、締め切りが殆どない。そこでこの機を利用して四年越しの書き下しの仕事(と言っても去年おと年と殆ど手をつけていない)に、いよいよ結着をつけることにする。今日明日は資料読み」
ここで着手するのが「第七章 日露戦争という巨大な見世物」なので、あとは一気呵成だったのだろう。恐るべき筆力というか、加速力というか、体力というか。
『靖国』はエピグラムに『「敗者」の精神史』の一節を引いていることでわかるように、「学問上の師」である文化人類学者・山口昌男の影響が大きい。それは著者自身もそう書き、山口昌男も書評(「新潮」一九九九・四)で、お互いの関心の共有を認めている。『靖国』が熟成された十年間、二人は一緒に古書展に通い、毎日のように電話で喋り、テニスに汗を流した。そのために山口昌男の影をどうしても感じてしまうのだが、知の大食漢ぶりは似ていても、『靖国』は坪内祐三の大好物ばかりがメニューに並んでいるのだということが今になってわかる。盛り場、絵画、建築、芝居、小説、相撲、プロレス、ロック、それから血縁である柳田國男も(柳田の兄・井上通泰は坪内の曾祖父。『明治天皇御集』の編纂者でもある)。どれもが無理にではなく、当然のこととして靖国神社に関わっていく。
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