坪内祐三の呼び込む力は、本書の中のビジュアル資料に遺憾なく発揮されている。とくに古書目録で見つけて注文した野々宮アパートの入居案内パンフレットと、神保町の古書店でたまたま入手できた、昭憲皇太后御遺物の稀覯書『明治三十九年五月靖国神社臨時大祭写真帖』である。両方とも、本の中でたっぷり紹介されているので、眼福これに勝るものはない(イルミネーションの写真を見ると、近代日本にとって戦争とは何だったのか、と頭抱えて考え込んでしまうが)。
「当時の靖国神社を流れていた空気を知る」というのが、坪内の当初からの目論見だった(「靖国神社は明治のハイカラ」「諸君!」一九九四・一一)。「空気」を知る手がかりとして写真と同じくらい便利なのは日記であるが、『靖国』には日記は出てこなかった。もしもすでに活字化されていたなら、『靖国』に絶対に引用したであろう日記本が昨年(二〇二一年)出た。坂本貞枝編『陣中楽―日露戦争時、一軍人の妻の日記』(新潮社図書編集室)で、日記の中に靖国神社がしばしば出てくる。この日記の筆者・鈴木竹子は四谷に住み、夫は陸軍騎兵少佐として戦地へ赴いていた。夫の名は鈴木荘六、後の陸軍大将、参謀総長である。妻は細々と記した日記をそのまま手紙にして送り、夫は「陣中の楽しみ」として読み、書物の形にまとめて、凱旋の折りに持ち帰った。「光子[娘]は招魂社の馬場で遊んで居りまして」、「九段のかんこうば[勧工場]までいって来た」、などとあり、明治三十八年(一九〇五)五月六日は一家で靖国神社に詣でた。
「相撲の処には満員の札が立ていまして、其あたりの木には人がなったようで御座います。遊就館の近辺のテントの中にはいろくおいてありますが人が一杯で中々見えません。(略)社殿は神官両側に並びていまして、遺族は其中に入るのでしょうと思われました。御仰の事も御座いますから御さいせんを上げまして、ていねいに拝みました。周囲の柵に沿うてやね[屋根]をしまして、遺族其他からの御供物がならべて御座いました。やがて馬場の方へまいり見せもの[見世物]を外からみまして、(略)九段の勧工場にまいりました」
『靖国』を読んだ上で日記を読むと、どの光景も目に浮かぶようである。『靖国』が描き出した「空気」そのままの世界なのに驚く。この竹子夫人は、遼陽占領の市中のにぎわいには、「戦死なされた方々のご家族が、今のおまつりさわぎを御覧なさったらどんな感じがおこるでしょう」と書き、また陸軍士官学校を卒業し勇躍戦地に赴く若者たちを見て、「出るとすぐ名誉とは申せ戦死せらるゝ方もあるでしょうとおもえば、(略)門松や冥土の旅の一里塚の如き感じがおこりました」と夫に書き送るような夫人である。その事を書き加えておく。
『靖国』刊行後、新潮文庫に入った二〇〇一年に小泉純一郎首相の靖国参拝があり、靖国神社は「靖国問題」化していく。さらには二〇〇六年には、A級戦犯合祀後に昭和天皇が参拝をやめたと語っている「富田メモ」がスクープされた。坪内は「文藝春秋」連載コラム「人声天語」で、『靖国』の著者らしく、またもユニークな意見を吐いた。
「私は天皇制には無関心だが、昭和天皇は好きだった。それが昭和の日本人としての私の一つのアイデンティティだった。/だから私の失望は大きい。(略)しかし、A級戦犯と言われる彼らは、天皇の名のもとに、日本を戦争へと導き、あのような結果を招いてしまったのだ。そういう臣下たちを昭和天皇は突き離した」(「文藝春秋」二〇〇六・九)
『靖国』は坪内祐三の幻のデビュー作であるというのが私の立場だった。デビュー作であるならば、もう一人の師からの影響も刻印されているだろう。坪内は山口昌男を「学問上の師」、福田恆存を「精神上の師」と呼んだ。福田が亡くなったのは一九九四年であることを考えると、『靖国』には福田恆存の影もなくてはならない。そのヒントは、たっぷり引用した「原辰徳の口にした「聖域」」の中にあったのではないか。
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