本の話

読者と作家を結ぶリボンのようなウェブメディア

キーワードで探す 閉じる

コロナに翻弄され続けた医療現場の慟哭と、一筋の希望。現役医師・知念実希人、渾身の感動作スタート

出典 : #別冊文藝春秋
ジャンル : #小説

別冊文藝春秋 電子版45号 (2022年9月号)

文藝春秋・編

別冊文藝春秋 電子版45号 (2022年9月号)

文藝春秋・編

くわしく
見る
 
「別冊文藝春秋 電子版45号」 (文藝春秋編)
プロローグ 2019年秋

〝それ〟はただ、そこにあった。
 名前はなかった。意思を、意識を持たぬ〝それ〟らには必要なかった。
 呼吸をせず、食べず、動かず、生殖をせず、代謝をしない。ゆえに、〝それ〟は生きてはいなかった。有機物で構成された物体でしかなかった。
 ただ〝それ〟は一つのことだけをプログラミングされていた。
 増殖すること。
〝それ〟がいつ生じたのかは誰にも分からない。誕生から四十六億年が経つこの惑星のどこかの時代で、偶然の積み重ね、もしくは『神』と呼ばれる概念によって創り出された。
〝それ〟は長い長い間、暗闇の中を飛び回る、翼をもつ漆黒の獣とともに存在していた。
 しかしいま、〝それ〟の前には、他の獣がいた。
 翼をもたず、体毛は頭部の一部に集中し、二本足で直立歩行しながら、複雑な鳴き声を発する獣。
 その獣が、顔面の中心部にある二つの穴から空気を吸い込んだ。
〝それ〟とともに。
 外殻に無数の突起をまとう球状の〝それ〟の姿は、まるで光冠を帯びて輝く太陽のようだった。
 獣の細胞に着地した〝それ〟の突起が、細胞の膜にある複雑な形をした構造物と結合する。まるで、鍵穴に鍵がまるかのように。
 膜が〝それ〟の外殻と、けた蠟のように混ざり合いはじめた。
〝それ〟の中に折りたたまれて収められていたひも状の物質が、細胞内に放出される。
 狭い金魚鉢に押し込められていた海蛇が、大海に放たれたかのごとく、その物質は細胞質を泳ぎ回りながら、自らの複製体を作りはじめた。
 生み出された複製体が、さらに次の複製体を生成していく。
 二倍、四倍、八倍、十六倍、三十二倍……。
 ネズミ算式に増えるその物質に満たされていく細胞は、もはや獣の一部ではなく、〝それ〟を化学合成し続ける、有機工場と化していた。
 やがて、細胞が破裂すると同時に、無数の〝それ〟がき散らされ、そして周囲の細胞へと取り付いていく。
 その光景はまるで、燃え上がった太陽が、まばゆいフレアを噴き上げるかのようだった。

別冊文藝春秋からうまれた本

電子書籍
別冊文藝春秋 電子版45号 (2022年9月号)
文藝春秋・編

発売日:2022年08月19日

ページの先頭へ戻る