この一言には、それまでも思い切り失望を味わって、すっかり失望慣れしているはずの自分でもさすがに茫然自失するものがあった。
私は作家の息子であったし、大手の出版社で働いていた経歴も相俟っていかにもすんなりとサラリーマンから小説家へと転身したように見られがちだが、正直なところ、作家になるのには人一倍の苦労をしたと思う。結局、四十一歳のときに再デビューという形でこの世界に一歩を踏み出し、それ以降は曲がりなりにも筆で生活することができるようになったが、三十代の十年間は、書いては駄目、書いては駄目の繰り返しで、ひたすら意気消沈の日々だった。
三十代の終わりに、ある大手の版元から長編の書き下ろしをやってみないかと誘いを受けた。長編の『僕のなかの壊れていない部分』も『すぐそばの彼方』もまだ日の目を見てはいなかったし、「鶴」も未刊のままではあったが、それでも乾坤一擲、これが小説家になる最後のチャンスだと自分でも腹をくくって、喜んでお引き受けすることにした。
そうやって一年以上をかけて書き上げたのが、のちに実質的なデビュー作となる『一瞬の光』(角川文庫)だった。だが、この作品も注文を出してくれた編集者には、さんざん待たされた挙げ句に「とても出版できるようなものではない」とノーを突きつけられた。
「小説の世界は、あなたが考えているよりもずっとハードルが高いのです」
受け取った感想の手紙にはそのように記されていて、今回もただ唖然とするしかなかった。
しかし、このときばかりは「じゃあ、これはとりあえず他の作品同様にお蔵入りさせて、新しい作品を書こう」とはいかなかった。「一瞬の光」を脱稿した直後にパニック障害を発症し、とても筆を握れるような状態ではなかったのだ。
そこで「一瞬の光」を集英社に持って行った。千枚を超える長編だったので、先方は「読むだけなら」と言って原稿を預かってくれたのだが、読んでさえくれれば気持ちも変わるだろうと信じていた。だが、結果は最初の版元の編集者と同じ。
「白石さん、一体どうしちゃったんですか?」と言わんばかりの反応で、作品の中身について議論する余地などどこにもなかった。
その後の詳細については『君がいないと小説は書けない』(新潮文庫)で、ほぼ事実通りに詳述しているので重複は避けるが、とにかく二社で門前払いを食った「一瞬の光」が、角川書店(現・KADOKAWA)で出版されることになったのは、文春の同僚で現在はノンフィクション作家となっている下山進さん、夫君の郡司聡さんが勤務する角川書店へ原稿を橋渡ししてくれた、文春の吉田尚子さん、そして、一番は原稿を読んで出版を即決してくれた角川書店の宍戸健司さんの尽力のおかげだった。彼らにはいまでも言葉で言い表せない感謝の念を持っている。
さて、だらだらと老人の繰り言のように昔話を書き連ねてきたが、そのあとさらに数年を経て、ようやく私の本当のデビュー作である本書『見えないドアと鶴の空』の出版へと辿り着く。『一瞬の光』を出してからは、『不自由な心』、『すぐそばの彼方』を続けて角川書店で刊行し、角川の次は、一番最初に声を掛けてくれた光文社の大久保雄策さんのもとで、まず『僕のなかの壊れていない部分』、『草にすわる』を発表した。そして、光文社の三作目、『第二の世界』から数えれば七作目として、やっとのことで、この『見えないドアと鶴の空』(「鶴」改題)を刊行することができた。
雑誌掲載から実に十二年の歳月が過ぎていたことは冒頭で書いた通りだ。
デビュー作であるから、私のこれまでの作品全体を通じて表現されているもののエッセンスが本書にはすべて盛り込まれている。
私はどの作品でも現実離れした現象を必ず入れ込むようにしているが、実のところ、読者にすれば超常的と感じられるに違いないそれらを、私自身は“現実離れした”ものとはまったく考えていないのである。
そういう意味で、私はたまにあっち系(つまりスピリチュアル系)の作家のように評されるし、「こういう超常現象に頼るストーリー展開を控えてくれれば、もっともっと読者がつくのに」と残念そうに指摘されることもままある。
先日などは親しい担当編集者から、「とにかく白石さん、奇跡はもうやめてください」と面と向かって注意された。
私のことを心配してそう言ってくれているのはありがたいし、なぜそんなことを言うのかも、皆がこの余りにも殺伐とした世界の住人として生きている限りは十二分に理解できる。だが、たとえば本書で主人公の種本由香里が繰り出すさまざまな超能力それ自体は荒唐無稽に見えるとしても、彼女の使う特殊な能力に表象される人間個々の潜在的な力は、間違いなくこの世界に存在していると私は信じているのである。
私は、むしろ、そうした人間誰しもが身につけているはずの超常的な力や才能を必死に覆い隠そうとする何らかの別種の力が世界には働いていて、そうした力の存在こそが、この世界を穏やかならざるものへと導き、つまりは混沌と惨劇とを生み出しているに違いないと考えている。
人類の自らを見つめる目は世紀を重ねるごとに曇りの度合いを強めているが、それはわれわれ一人一人が首にかけている双眼鏡のレンズを執拗に曇らせつづけている何者かがいるからだと思う。そしてその何者かはすべての人の肩の上にちょこんと座って、私たちのことを迷いや苦しみへと誘っている。
私にすれば、奇跡なくしてはこの世界はただの救いなき暗黒であるし、遠い昔の何らかの宗教的伝承にそれを見出すのではなく、いまこの現在の世界において自らの双眼鏡で、その奇跡というものの有り様やそれが存在する理由を追究することが私たちの人生にとって何よりも大切でエキサイティングで、さらには最大の愉悦であろうと思われる。
そして、小説というメディアが一番に果たすべき役割もまたそこにあるのだ。
私は四十歳を過ぎてデビューしたスロースターターだが、それでも作家業はすでに四半世紀に及んでいる。いままでいろいろな作品を書いてきたのだが、ここ数年は、自分がどうしてあんなに小説家になるのに苦労したのかを思い出させてくれる、このデビュー作『見えないドアと鶴の空』へと帰還する道を、これまでよりも慎重に丁寧に歩いているような気がしてならない。
なぜそんな道を歩んでいるのか?
それはつまり、この作品に還り、この作品を超えることが作家としての最も大きな課題であることに、私自身がようやく気づいたからだと思われる。
令和四年十月十日 白石一文
(「文庫版あとがき」より)
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