財産についてもきちんと決められていた。結婚後も妻の財産権はちゃんと保護されており、妻が稼いだ金は妻のものだし、妻に落ち度がなくて離縁に至った場合は結納金なども返済することになっていたという。妻の財産の監督権を夫が持つようになるのは明治民法からなのだ。女性が婚家に従属するというのは決して日本の伝統ではない、というのは実に興味深い。
その他にも、本書には登場しないが、妻からの離縁請求を受けて夫と調停を行う幕府公認の縁切寺もあったし、夫から三行半を出されても「返り一札」という受け取り状を渡さない限りは離縁は成立しなかった。武家の場合は家と家の結びつきという側面から数々の重い制約があったが、庶民レベルでは思っていたよりも女性の自由度が高かったのである。しかも最終話には、当時の法律を逆手にとるような展開が待ち受けており、実に痛快だ。
それら当時の法律や制度、慣習を絶妙に物語に織り込みながら、DV、金銭、嫁姑、親権などなど現代にも通じる離縁トラブルを各話で描いているのだから面白くないわけがない。この時代はこうだったのか、ここは今と同じだ、などなど細部に至るまで楽しめるようになっている。
現代に通じるのは表面的なトラブルの種類だけではない。その背景にある家族の感情もまた、今と変わらない。別れたい別れたくないという男女の情。手放したくない、幸せでいてほしいという親子の情。縁あって結ばれた家族がその縁を断とうとするとき、どこで折り合いをつけるのか。今の私たちにも刺さる登場人物たちの想いをどうかじっくりと味わっていただきたい。
これらから伝わってくるのは、離縁は目的ではなく問題を解決するための選択肢のひとつである、という点だ。きっぱり別れた方がいい夫婦もいれば、腹を割って話せば別れるまでもなく解決する問題もある。最も大事なものは何なのか。本当に解決すべき問題の芯はどこにあるのか。もつれた感情の糸を少しずつ解(ほぐ)して、狸穴屋はそれぞれの家庭にとって、夫婦にとって、よりよい方法を見つけていく。本書は捻(ひね)りの効いたトラブルシューターの物語であるとともに、さまざまな縁の形を描き出す家族の物語でもあるのだ。
もうひとつ、本書で注目願いたい点がある。絵乃の変化だ。
夫と別れたいと思いながらもどこかに未練があって、優しくされればほだされていた絵乃。しかし狸穴屋で経験を積んだ後で夫と再会した絵乃は「こんな男だったろうか?」「そのすべてが安っぽく、ちんけに映る」と感じ、「べたべたとした口調が女房と呼んだとき、はっきりと嫌悪が走った」のである。
夫が変わったわけではない。変わったのは絵乃だ。絵乃は打ち込める仕事を持ち、相談に乗ってくれる仲間ができ、暮らしが安定した。気が紛れた、と言ってもいい。さらに仕事を通して、他の家庭のさまざまな問題を見てきた。その結果、それまで自分の悩みで手一杯だったところに風穴が開き、自らの悩みを相対化するだけの余裕と視野の広さを手に入れたのだ。
思い詰めていた第一話からの変化を見るにつけ、余裕というものがどれほど大切かしみじみと伝わってくる。ここで思い出していただきたいのは、狸穴屋の女将が七回離縁を経験しているという設定だ。やりがいのある仕事を持っていることが女将を経済的にも精神的にも自立させている。それゆえに人生を自分で決断できる、そんな存在として女将は配置されているのだ。
江戸時代の離縁状は、養蚕・製糸業が盛んだった地域で多く見つかっているという。それは働き手・稼ぎ手として女性たちがひとりで生きていく力を持っていたからに他ならない。
絵乃の変化、女将の設定、そして各話に登場するそれぞれの事情を抱えた女性たち。ひとりひとりの選択や決断を噛み締めてほしい。女性が自分の人生を自分で決める。それこそが、本書の裏テーマなのである。
本書の単行本が刊行されたのは二〇二〇年だが、前後して澤田瞳子『駆け入りの寺』(文藝春秋)や田牧大和「縁切寺お助け帖」シリーズ『姉弟ふたり』(角川文庫)など、離縁を扱った時代小説が立て続けに出版された。閉塞感に喘ぐ現代に、女性が自分の手で自分の人生を決めることの大切さ、生きる力を信じることの大切さをあらためて伝えたいという作家たちからの力強いメッセージに思えてならない。
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